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労働環境と器の価値

あんたは最近すき家の店内で食事していたりするかい?

俺は行ったとしても持ち帰りばかりになってたんだ。
在宅勤務だから、お米は家にあることが多いから牛皿だけ注文して、家にあるお惣菜とあわせて食べる感じ。

で、俺としては知らなかったんだけれど、こんな事になっているんだな。

なんでも、店内の提供もお持ち帰りの容器に入れて提供するようになっているんだそうだ。

おおう、これは確かに違和感が半端ないな。

まずもって、陶器の器ってのが俺にとって結構な存在感を持っていたことに驚いた。
たぶん、比較的俺は器ってものにこだわりを持っていない方だと思うんだ。

そんな俺ですら牛丼が器に入ってこない。
味噌汁が器に入ってこない。
サラダが器に入ってこない。
水がコップではなく紙コップで提供される。

そんな状況はものすごくさみしいって感情を掻き立てられちまうんだよ。

今回は食事と器について考えてみる回だ。

ちっと、俺たちにとっての食事ってやつを考えてみようぜ。


すき家の選択

すき家と言えば、ワンオペ(一人で店舗業務をこなすこと)での店舗運営なんかで労働環境の悪さみたいなので悪目立ちしていた記憶があるよな。

こんな宣言が2014年になされていたっぽいけれど、こんなニュースが2022年に出ていた。

ワンオペは結局なくせていないんだな。
まあ、単品価格をあんまり上げることが出来ないから、売り手市場での人材確保コストも必然的に上がっていく中で、人数を確保する難しさってのもあるんだろう。

立てて加えて、ワンオペで誰も助けてくれない職場で働きたいと思うヒトもそうそういないだろう。

そうなってくると、現場の業務をいかに効率化するかっていう仕組みの工夫に入らざるを得ない。

その苦肉の策がすき家の器の廃止ってことだったんじゃないかって
思うんだよ。

器を使い捨てに切り替えることで「洗う」と言う業務を廃止出来る。
実際、返却コーナーには「ゴミ箱」が配置されていて、いきなり容器はゴミになるってスンポーだ。

エコじゃないだろって?
つまりすき家はエコよりもヒトの労力を優先したってわけだ。

それほど切迫した労働環境ってことなんだろうな。

器に俺たちが求めていたもの

他のファストフードを考えてみるとさ。
例えばマクドナルドなんて、はなから器なんて無いじゃん。

「そういうもんだ」ってなんも考えないで食べてたけれど、他のハンバーガーチェーンも似たりよったりだよな。

小規模店舗でのこだわりのハンバーガー的な提供をされるときには器に乗っかって来ることもあるけれどね。
そういうところはハンバーガーで1200円とか取るんだよな。

その意味では、ワンコインで取れる食事なのに器に入っているってのはすごいことだったのかもしれない。

でだ。
俺は牛丼については器に入っていることが望ましいと感じている。
なぜか。

なんとなく、思うのが器の重さなのかも知れないってことだ。

重さによって、食事のありがたみを物理的に感じられるってことね。
まあ、そんなこと言ったらハンバーガーやサンドウィッチにありがたみを感じていないのかって話になっちまうけれど、なんだろうな。

おにぎりもそうだけれど、ああいう携行食料ってエネルギー補給って感覚がないかい?
食事じゃなくてさ。

そういう意味では俺の食べているものは高頻度でエネルギー補給になっているかも知れない。

重みを感じながら食事する。
お皿のような持つことのない器でも、その重みの安定感を感じながら食事する。

そして、重み以外にも手触りってのもあるかも知れない。
味覚ってのは触覚の一部なんて話も聞く。
そういう意味では、器の感触ってのは味の一部ってことになるのかも知れないな。

さっき書いた通り、すき家にはすき家の事情ってのがあるのは容易に想像が出来る。
その想像をした上で、俺たちは器に求めている物がある。

俺としては器を戻して欲しいけれど、それには価格転嫁をして、人員を確保する必要がある。
結構、難易度が高い話だよな。競合他社の状況を踏まえるとさ。

なあ、あんたはどうだい?

この苦肉の策を選択したすき家をどう評価する?

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