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誰かを信じるって意味

あんたにも誰かを信じられなくなることってあるかい?

なんかこんな記事を読ませてもらったんだ。

まゆみさんは実に繊細な文体で心の底をえぐるような表現をしてくれている印象を受けたんだよね。
なんつーの?

シャベルでガッツリ堀こむんじゃなくて手のひらですくいに行ってる感じ。

まあ、俺の場合はシャベルどころじゃなくて重機で整地している感じかも知らん。
#ロードローラーだ
#世界観が違う

でね、そんな手ですくうような優しさの文章でもだよ。

心をしっかりとえぐってくれた言葉があった。

人間を信じられなくなった状態ではなくて、自分という人間は、どうせ人から○○される存在なんだと強く「信じている」状態のことです。

出展:まゆみさんのnote

これは人間不信という状態は人間を信じていないんじゃなくて、人間は自分を認めないと信じ込んでいる状態だってことだよな。

これさ。

えげつないほど、真理の扉を開いちまってないか?

今回は、まゆみさんのこの言葉から感じられた俺の感情を記録していく回だ。

ちっとオッサンの心の動きにつきあってくれよな。

信じるということ

そもそもだ。

信じると言う言葉と思い込むという言葉に違いを感じるじゃんか。

この二つの言葉を並べてみると本質的には信じるという言葉は「誰かを」を必要とする言葉だよな。

対して思い込むって言葉は必然的に対象が「自分で」ってなる。

本来は信じるという言葉は自分に向けられるものじゃなくて、相手に対して使われるものなんだよな。

でもあえて、まゆみさんは「自分」という存在に対して信じるという言葉を使った。
この意味を考えてみたくなったんだよな。

相手を「信じる」ってこと

本質的にって言葉が正しいのかわからんけれど、信じるって表現を使うときってさ、「こうして欲しい」って願望とセットになる気がするんだよな。

優しくして欲しいって気持ちから優しくしてくれると信じてる。
助けて欲しいって気持ちから助けてくれると信じてる。
愛して欲しいって気持ちから愛してくれていると信じている。

始まりは自分自身の中にある願望なんだよな。

そんな願望をだよ。
相手という自分の鏡みたいなものに求めるわけだ。

そうあれかし、と「思い込んでいる」自分を見つめるんじゃなくて、相手を「信じる」ってわけだ。

これさ。

もはや依存だよな。

そう考えた上ではたと思う。

俺も依存しているよなってさ。

自分の依存を眺める

俺自身、実に多くのヒトに依存していると思う。

妻にも息子にも依存している。
父にも母にも依存している。
義父にも義母にも依存している。
弟にも義妹にも依存している。
甥っ子の二人にも依存している。

仕事仲間にも依存している。
上司にも依存している。

そして、これを読んでくれるあんたにも依存している。

書ききれないから名前は挙げないけれどさ。
ホント、スキをくれたりコメントくれたりしてくれるヒトに俺は依存しているんだ。

自分が○○だって信じてること

でだ。
まゆみさんの表現で言う自分という人間は、どうせ人から○○される存在なんだってのに当てはめてみる。

まずストレートに考えると俺はあんたらがいなかったら生きていられない存在なんだってところか。

家族がいなけりゃ生きていけない。
仕事仲間がいなけりゃ生きていけない。
これを読んでくれるあんたがいなけりゃ生きていけない。

なんとも脆弱。
実にひ弱な存在ってことだな。

でもさ。
それで良くないか?

言葉を逆にすればだよ。
俺もあんたの生きる意味になってるってことだろ?
仕事仲間の生きる意味になってるってことだろ?
家族の生きる意味になってるってことだろ?

俺たちが生きるってさ、誰かの意味に少しでもなれているって理解するだけで、ホント充分な意義を持っていける気がするんだよな。

でね。
そこには自分が〇〇であるってことって、実はあんまり意味がないのかもって思うんだよね。

だってさ。
あんたが〇〇であるからあんたの存在は意味を持っているわけじゃないと思うんだ。

ただ、あんたがあんたであるからあんたには意味が出来るんだ。

なあ、あんたはどう思う?

あんたの周りにいるやつにあんたはどんな意味を与えているんだと思う?

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