料理に俺たちが無意識で求めているもの

あんたも冷凍餃子を出したら「手抜き」って言われたってニュース見たかい?

俺の感覚からすると、家事にしろ仕事にしろ手を抜ける工夫をするのが美徳って感覚があるんだけれど、一般的にはそうでもないってことなんだろうな。

品質を落とさない手抜きっていうのは、作業を最大限効率化するって意味になるんだから、そこは逆に褒め言葉として受け取ることは出来ないもんなんだろうか?

今回はこのニュースで考える切っ掛けをもらった「言い方」について思考を巡らす回だ。

ちっと一緒に考えてみようぜ?

なぜ料理を「手抜き」するのがダメなのか

冷凍餃子を夕飯に用意して、子供が「美味しい」って言った後に父親が「これは手抜きっていうんだ」っていうのが今回のニュースの骨子らしい。
平和なニュースだよなぁ。なんつーかもうちっと世の中で気にするニュースあるんじゃないかね?って思ったりもする。

で、確かにこの文脈で「手抜き」って言葉を使ったら、父親のセリフは夕飯を用意した母親への否定の意思があるってのは明確だよな。

でも、改めて考えるとなんで料理に手抜きをするのがダメなんだろう?

多分、料理というのが家族の象徴みたいな意味を見出しているヒトが一定数いるからなんだと想像するんだ。

俺たちオッサンが子供の頃、今みたいに冷凍食品もそれほど開発されていない状況があったよな。
親は毎日、一生懸命に料理を作って俺たちに食わせてくれた。
今になって思うと、ハンバーグもイチからひき肉をこねて作ってくれていたし、餃子も一緒にひき肉をこねて、それを餃子の皮に包むお手伝いをしていたことを思い出す。

俺自身、その料理という作業を経由して母親の愛情みたいなものを感じていたと思うんだよね。

で、時は経ち冷凍食品を始めとして、コンビニやスーパーで普通に手に入れられる惣菜のバリエーションも実に増えてきている。

そう言う冷凍食品にせよ、惣菜にせよ、自分でこさえるよりはるかにクオリティが高いものが用意されている。

これらを活用せずに、イチから料理するメリット。
それが今回のニュースの父親のセリフの裏にあるってことだよな。

つまり料理という作業に工数をかけることそのものが愛情表現であり、その作業を効率化するってことが愛情が薄れているっていう感覚があるってことなんだろうな。

「手抜き」という否定の言葉が出てしまった理由

当然だけれども、料理をイチからしないことと愛情を注いでいるかってことには因果関係は無い。

むしろ出来合いの惣菜のほうがクオリティが高いんだから、より良いものを食べさせようってのは愛情表現そのものと言ってもいいくらいだ。

そう言っては見るものの、このニュースの父親が自分の妻からの愛情を感じられていないんだとすると、それは悲劇だよな。

この悲劇は色んな要素がある。
夫は妻からの愛情を感じられていないので、「手抜き」という否定的表現を使って妻を非難するし、妻は夫に料理を提供するという愛情表現を否定されている。

おそらくもともとの行き違いがあって、そのことが「手抜き」という言葉で顕在化したって感じなんだと思うんだ。

だとすれば、俺たちオッサンが考えるべきは「手抜き」と言う言葉をどうやってポジティブな表現にできるのか?ってことだよな。

さっきも書いたとおり、冷凍食品や惣菜を食事として提供することは、非常に効率的だと思う。
準備にかける時間を節約できるし、何しろ美味しい。

その前提で、同じようなシーンに俺たちが出くわした時に俺たちはどう答えるのが正解なのか?

子供「今日の餃子美味しいねぇ」
父親「そうだねぇ。お母さんが選んでくれたから間違いないね

……若干の違和感があるな。
感謝する対象が母親の選択センスになっていることがダメなんだな。きっと。

子供「今日の餃子美味しいねぇ」
父親「そうだねぇ。今日も美味しいごはんを用意してくれてありがとうだね

こんな感じかね。
冷凍食品を料理してくれたことと、冷凍食品を買ってきてくれたこと。
その両方に感謝したことになるもんな。

そもそも、今という時代は個人が生活したり仕事したりする以外にやるべきことがどんどん増えている。
ネットが一般化することで情報の流通量が爆発的増加をしているんだから、俺たちは死ぬ気でその情報をさばいていかないと社会的に生きていくこともままならない。
その生きるために使うべき時間を料理という形で俺たちに差し出してくれているんだ。
そこに感謝を忘れたら、俺たちはヒトとしていかがなものか?ってなっちまうよな。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちは家族に時間を使ってもらっているってことをどうやって意識していけば良いんだろうか?

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