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「求める表現」「求められる表現」
あんたにもお気に入りの漫画家さんがいたりするかい?
冨樫義博さんとか、藤田和日郎さんとかの天才と呼ばれるヒトたちやちばてつやさんや松本零士さんのような大御所。
実に多くの才能がマンガという文化を形成してくれていると思うんだよな。
中には三浦建太郎さんや佐藤タカヒロさんのように道半ばで命を終えていく才能もある。
そんななかで、多くの漫画家さんが抱えているハードルってのがあると思うんだ。
つまり、商業的に作品が成立する必要性を抱えながら制作していくってハードルだ。
今回は作品を作りたいという原初的な欲求と、作品を楽しみたいという同じく原初的な欲求の関係について考えてみる回だ。
ちっと、「作品」って何なのかってテーマ。考えてみようぜ。
作家性という「期待」と「自負」
今回、この事を考える切っ掛けをもらえた作品があったんだ。
俺がガキンチョの頃から主にスポーツ関係のマンガをたくさん書いてくれている塀内夏子さんの意欲作だ。
高校生時代に塀内夏子さんの「オフサイド」に夢中になっていたのを懐かしく思い出すんだよな。
今ほど、サッカーが戦術的に捉えられていなかった時代のサッカー漫画として、キャプテン翼のような超必殺技の応酬ではない形でマンガとして成立させた意味で意味のある作品だったと思うんだよね。
で、その塀内夏子さんが商業誌としての制約を取っ払って描いたのがこのマンガってわけだ。
詳しくは読んでもらいたいけれど、実に「娯楽」とはかけ離れたテーマを描いた作品だと思う。
表現によって救われるもの。
表現を逃げ先と感じてしまうこと。
生と死。
愛。
存在意義。
そんなキーワードを実に濃い表現で描き出している作品だと思う。
読んでみて思ったのが、「これは塀内夏子作品か?」って違和感だった。
好きか嫌いかで言えば、ワリカシ好きな部類の作品なんだけれども、塀内夏子さんが描く作品として求めている作品だったのかって言うと、ちっと違う気がする。
それでいて、塀内夏子さんにしかこの作品は作れなかったって感じもある。
実に不思議な物語だ。
多分だけれども、塀内夏子さんの作家としての「自負」を感じることが出来たからなんだよな。
描きたいものを描くって覚悟って言い換えても良い。
それは俺が事前に感じていた「期待」を遥かに超えるものだった。
描きたいものを描ける特権
今までであれば、こう言う「描きたいもの」をストレートに描くことってホントに限られた特権を有する漫画家さんにしか許されなかったと思う。
俺の知る限りでは冨樫義博さんの「レベルE」とか、藤子・F・不二雄さんの「ミノタウロスの皿」とかくらいか?
未だに「レベルE」がジャンプで連載されていたって事実を受け入れられないくらい異色の作品だったよな。
逆に言うと、連載漫画って形でその特権を手に入れられる漫画家は実に限られているってわけだ。
だって、塀内夏子さんなんて、マガジンの大御所だぜ?
その塀内夏子さんが商業誌ベースではなく、佐藤秀峰さんの主催するWEBコンテンツとしてこの作品を描いたってのが、この商業ベースに載せていくって難しさを如実にあらわしている。
純粋に自分がオモロイと思うことを表現する贅沢
とは言え、作品を大衆に向けて発信したいってのは大御所の漫画家さんも、俺たちのような普通のオッサンも同じなんだと思うんだよ。
漫画家として「食えている」ヒトたちは、その発信する作品に「何が求められているのか」ってのを感じ取った上で表現するプロなわけだ。
でも当然だけれども、その「求められること」と「読ませたいもの」にはギャップがある。
そこに折り合いをつけながら、日々作品と向き合ってもらっているコンテンツビルダーの皆さんには足を向けて寝られないってやつだ。
で、ふと考える。
俺は「求められていること」を表現しているんだろうか?
まあ、それが出来ていたらもっといっぱいのヒトからの反応を貰えるようになるのかもしれない。
でもそれって「俺っぽさ」を求めて今も俺の文字を読んでくれるあんたのことを裏切ることになる気もする。
なあ、あんたはどう思う?
俺たちのような商業ベースには乗っていない発信を扱うやつらは、「自分が求めている」表現と「自分に求められている」表現をどう考えていけば良いんだろうな?
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