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正義という麻薬

小出恵介さんがえんとつ町のプペルのニューヨークでのミュージカルで復活するって話、あんたも聞いたかい?

小出恵介さんという役者さんに対する俺の印象は「人気のヒトなんだね」って感じだ。
会社の同期がベトナムでベトナム人のお嫁さんと結婚式をするって言うんで、喜び勇んでベトナムを訪れたときに、ふと空港で見かけたんだよね。
見かけたときに、「おお、小出恵介だ」ってスムーズに名前が出てきたことを思い出す。
名前をあんまり覚えられない俺としてはわりかし快挙だったんだよ。マジで。
#なにげに情報量が多い

そんな小出恵介さんだが(どんなだ)、芸能界で活躍なさっていたときの印象は結構ある。
パッチギにごくせんにROOKIES。非常に王道を行く芸能人だったような気がするわけだ。

今回はこの小出恵介さんについてオッサンが考えてみる回だ。

まあ、テキトーに付き合ってくれよな。

小出恵介さんに対するバッシング

今、小出恵介さんの名前で検索をしてみると、びっくりするくらいにバッシングするような情報が溢れかえっている。

小出恵介さんが起こした不祥事ってやつがその背景にあるわけだが、ここに見える今という時代が垣間見える。

検索が生活の中に溶け込むように浸透している今は、芸能人に対しても事あるごとに検索をかけていく。

何の映画に出ているのかな?
どんなことを発言しているのかな?

俺たちは、俺たちの興味本位に従って、芸能人を検索し続けている。

それそのものは、悪いことでもなんでもなくてインターネットという技術が生活に取り入れられた結果みたいなもんだと思うんだよね。

ところが、この状況は一つの社会を実現している。
いわゆる、「監視社会」だ。

あのヒトは悪いことをしていないかな?って観点でお互いを疑心暗鬼で見つめる社会。
そんな居心地の悪い社会が実現してしまっている。

特に芸能人のような名前と顔が一致するヒトにとっては、この状況は切実だ。

何のミスも犯すことなく生きていくことってのは、ものすごく難しい中で、何かのミスを犯したら、そのミスが永遠に忘れ去られることなく記録されていく時代。

それが今という時代なんだと思うんだけれども、芸能人の場合はその記録の量が一般人に比べて洒落にならないくらいに多いってことなんだと思う。

正義という麻薬

小出恵介さんに対するバッシングの内容を見ていると、びっくりするくらいに性の問題に対して俺たち庶民が拒否反応を示しているってことが感じられるよな。

鈴木杏樹さんの不倫報道にせよ、東出昌大さんの不倫報道にせよ、俺たちはその手の話題が出てくると「うお!大好物じゃ!」と言わんばかりにその情報に飛びついている様に見える。

とりわけ小出恵介さんの場合はお相手が未成年だったってことで、法的にも問題があるってんで、いよいよ社会的に抹殺しちゃろうくらいの勢いで俺たち庶民は反応していたよな。

こう言ういわゆるモラルの問題ってやつは、どうにも俺たちの「正義」の心を刺激してしまうものらしい。

この「正義」ってやつ。思いの外に厄介なものだと思うんだよな。

SNSが生活の一部になっている今という時代、俺たちはみんなが発信者でありうる社会。
その発信をするに当たり、誰もが自分を正しい側の人間だという前提に則って発信をしている。

自分の発言に正当性をもたせて、共感を得たい。
そのためには「悪いこと」をしたヒトを取り上げて、その「悪いこと」を正していきたい。
自分は正義の味方でありたい。

そんな感覚をあんたも感じたことがないかい?

悪いやつを批判して、自分は正義の味方になる。
コレほどの快感を伴うことはそうはない。

ところが、その実態は批判と言う名の不満の垂れ流しだったりする
小出恵介さんの話でいけば、「どうしてその事件は起きたのか」とか「未成年に対する趣味嗜好が持つ問題の本質は何なのか」とかの問題を掘り下げようとしている情報は滅多にお目にかかれない。

っていうか今回のことがあって小出恵介さんの事件についておさらいしようとしたけれど、びっくりするくらい表面的な情報しかない。

問題があったときに、その問題が起きた理由とその理由が自分に降り掛かってきたときに、どうやって回避出来るのかってのが最も重要な情報のハズなのに、出てくるのは小出恵介さんの復帰を手放しで歓迎するか、深い考察もなく昔の事件を振り返ってバッシングしている情報しか出てこない。

俺たちは、正義という錦の御旗にまるで麻薬にとりつかれたヒトのように依存してしまっているようじゃないか。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちは、小出恵介さんのもたらすエンタメに期待しつつ、「俺たちならどうできたのか」を考えてみた方が良いと思わないか?

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