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感情と言葉と

あんたは言葉で何かを表現するってことの意味について考えることがあるかい?

ネットが文字ベースでのコミュニケーションをレギュラーな方法にしている現状の情報化社会の過渡期において、今という時代は文字という形で表現される情報が人類史上でも最も多い状況になっていると思うんだよね。

ブログやこのnote。
TwitterやらFacebookのようなSNS。
インスタグラムのような画像や動画を前提としているSNSですら文字というものは欠かせない存在になっているよな。

ところがだよ。
この文字による言語化ってのは実のところ俺たちが扱い切ることが出来ないくらいの力を持っているって側面があるって話もあるんだよな。

今回は言語化が俺たちにもたらしている影響ってのを考えてみる回だ。

まあ、正解が何かってよりも、そう言うことを想像してみるってのをやってみようぜ。

とりあえず二郎系ラーメンで考えてみる

今回、この実に哲学的なテーマをくれた記事がある。

さとみんさんは自己認識というワードにもとづいてこの記事を書いてくれている。

ん?自己認識ってなんぞやって?
うん、俺もよくわからんので調べてみる。

自分が存在すると言う理解である。さらに、それは、他の人々が同様に自己認識するという理解を含んでも良い。自意識は、それが必ずしも顕在しているとは限らず、また、後になってから捜し求められることのない点でユニークなタイプの意識である。

出典:Wikipedia

よ~し困ったぞ。
使ってある単語は難しいものはあんまりないんだけれども、言っていることが全然頭に染み込んでこない。

なんか読んでみると自意識と自己意識でもちと違うとか書いてある。
うが~!もっとシンプルに書かんか!!

つまりあれだよな?
自分が何者かってことを自分で納得するって感じだよな?
あってんよな?

よ~し。ならその前提でさとみんさんの記事を読んでみる。

二郎系ラーメンを例にとって書いてくれているんだけれど、二郎系ラーメンを「好き」とか「嫌い」とかってときめきメモリアル的に捉えるんじゃなくて、その存在をストレートに自分の体を使って認識して、その物理的な存在に対する認識の多様性を認識しておきなさいよって感じか?
#古すぎて伝わらない例

言葉と自己と

哲学的すぎてうまいこと考えられる脳みそが足りないんだけれど、実に相反した概念がそこに渦巻いている感じがした。

つまりは言葉と自分の影響関係ってやつだ。

二郎系で考えてみるとだよ。
あんたが二郎系のラーメンを「旨い」って思っていたとする。

そこには実は難しい事実関係の整理が必要になる気がしたんだよ。

あれ?俺は「旨い」って言葉を聞いたから「旨い」って思ってんのか?
「旨い」って感情があったから「旨い」って言葉を使ったのか?ってさ。

これさ。マジで禅問答じゃないか?
俺らの好物は俺らが最初に「旨い」という感情があったからそうなったのか?
それとも「旨い」という言葉を経由した外部刺激があったから好物になったのか?

こいつは感情ってのが外部から物理的に観測可能ではない以上は証明する方法がない。

つまり、俺たちは俺たちの感情がどうやって発生したかってプロセスを整理することが出来ないってわけだ。

わからないものへの恐怖

でさ。
ヒトはわからないものに恐怖するという非常に根源的な事実をさとみんさんは書いてくれている。

で、さっき書いた通り俺たちの感情ってやつについて、実のところ俺たちは理解する手段を確立できていない。

となるとだ。
俺たちは俺たちの感情が怖くて仕方ないって話になるじゃんか。

そいつは言い換えるなら自分が怖くて仕方ないって話になる。
おおう、なんだその哲学。

究極的には俺たちは俺たち自身を理解できないがゆえに、ありとあらゆるものに対して無知という恐怖を感じているってわけだ。

でもさ。
知らないなら見に行けば良い。
それが調査兵団だろ?ってハンジ・ゾエ(©進撃の巨人)も言ってたじゃんか。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちは最も理解できないものが俺たち自身の感情という自分と切り離せないものだって事実に、耐えてもがき続ける事ができると思うかい?

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