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伝えるための「理屈」

あんたも子どもへの質問の仕方について工夫したりすることがあるかい?

子どもに対する質問ってやつはスゲー難しいって思っている大人ってのは結構いるんじゃないかって想像をしているんだよ。

正解・不正解が明確な問題があったとするじゃんか。
例えば計算問題とかね。
それであっても、子どもってのは感情が先に立つもんじゃん?
なので1+1は?に対して2だってことを「それやだ!」って言われた時って「いやいや、やだって言われても」ってやつになる。

正解が完全にデジタルに決まる問題ですらそうなんだから、日々起こるような正解が一定しない問題なんて更に困難を極める。

今回はそんな子どもの課題に対してどう取り組んでいくのかを考えてみる回だ。

まあ、例によって正解がある話じゃないんだけれど、付き合ってくれよな。

子どもの「間違い」を考える

あんたも明らかに「間違い」って思うような子どもの行動ってのがあると思う。
誰かを叩いただの、誰かをいじめただの。
逆の立場で、誰かから叩かれただの、誰かからいじめられただのだ。

俺たち大人はその事象に対して瞬間的に「ダメだろ!」だの「許せない!」だのって感情が湧き上がってくるのが普通だと思うんだ。

でもちっと考えてみると、子どもがそうした理由ってやつについて大人が真剣に考えるシーンって結構レアなんじゃないかな。

だってさ冷静に考えてみると「なんで叩いちゃいけないの?」ってものすごいシンプルな質問ですら、俺たちは誰もが納得する答えってやつを共有できていないと思うんだよ。

だって、俺たちはガキンチョの頃に悪いことをしたら先生に叩かれてただろ?
実際問題、あの叩かれたことで得た教訓ってのは0じゃないと思うんだ。

ダメってことをシンプルに痛みと言う不快感を持って得る教訓。

あれはあれで俺の人生に深みを与えてくれた行為だと思うんだよな。

でも、今の教師にはその権限は与えられていない。
言い方を変えれば今の子どもたちは「痛み」で教訓を得ることが出来ない。

これってさ、子どもに「理屈」で世の中を把握しろってことを要求しているってことなんだよな。
理屈を学ぶ前の子どもたちに。

子どもが「正解」を学ぶプロセス

自分はこう言っても理屈っぽいタイプだとは思うわけだけれども、この理屈っぽさがどこで作り上げられてきたのかってのを考えると結構ムズい。

自分の父親はどっちかって言うと感性で社会を作り上げてきたタイプだと思ってるんだけれども、それは俺の評価でしか無い。
自分の母親に言わせると、俺が電話で同僚と仕事の話をしていたのを聞いて「あなたの追い詰め方はお父さんそっくりね」ってなるらしい。

いやいや、追い詰めてねーしって思ったけれども、まあ客観的に見たら俺は父親の姿をトレースしているってことなんだろう。

で、同時に俺が社会人になった後に影響を受けたヒトも相当数いる。
先輩、後輩、同僚。上司に部下に協力会社の皆さん。

ありとあらゆるヒトの影響を受けて今の俺はいる。

その経験の上に俺というヒトは存在しているってわけだ。

では俺たちの次の世代の子どもたちはどうなのか?
同じ様にヒトとの関わり方の中で何かを学び取っていくのか?

その答えは「YES」なのは間違いない。
ただその答えが生き残る力につながるのかといえば「わからない」としか言いようがない。

なぜって?
今の世界の変化の速度ってのは、俺たち今を生きるヒトに測り知れるようなもんじゃないからだ。

俺たちの経験では「正解」を子どもたちに提供できないんだ。

だって、俺たちの生きてきた時代の「正解」は10年後の「正解」だって俺たちは言い切れないんだもんよ。
俺たちの成功体験は今の子どもたちに継承するってのは無理がある話なわけだ。

だとすればどうすればいい?

身も蓋もないけれど、子どもたちに「理屈で説明する癖をつける」ってことに尽きる気がするんだよ。

共感するってのが最善かもしれない。
でも共感するのって結構才能がいると思うんだ。

相手の感情を捉えるセンスが要求されるしね。

でもそんなセンス誰でも持てるもんじゃない。
鍛えることで誰でも持てる物が必要だ。

それが「理屈」なんじゃないか?

理屈ってのは言葉の中では比較的デジタルに分類できるものだと思う。
言い換えれば理解することができれば他のヒトに伝える事ができる情報ってことなんだよな。

子どもの「間違い」を理屈で共有できた時。
子どもはその「間違い」を誰かに伝えることが出来る。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちは俺たちの感性を「理屈」に変換できると思うかい?

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