「情報」と「意見」
あんたもなんかの発信を世の中に向かってしていたりするかい?
SNSが生活の一部になった今の世の中ではあたりまえのようにみんながみんな発信者となるようになった。
そこで多くの人にとって共有されてきている価値観がある。
いかにして自分の発信を読んでもらえるかって価値観だ。
SEOを始めとして画像の使い方やらなんやらと、様々な「テクニック」が世の中で出回っているよな。
でもちと待てよ?
俺たちが望んでいるのはホントに「読んでもらう」ことなのか?
今回は俺たちが発信することで得ているものについて考えてみる回だ。
自分のなりたいもの。ちっと一緒に考えてみようや。
「読んでもらうこと」の価値
実際問題、今の世界は実に多くの情報が出回っている。
その莫大な量の情報を全部消化することなんて出来るわけがないから、俺たちは情報の取捨選択を必然的にすることになる。
その取捨選択に絶大な力を持つもの。
それが検索エンジンなわけだよな。
俺たちは日々「正解」を求めて検索エンジンにキーワードを叩き込んでいる。
その結果たどり着く情報。それが「正解」ってわけだ。
ところがだよ?
俺のnoteのようなエッセイ的なものってのは全然「正解」には程遠い情報なんだよな。
むしろ「課題」の共有だったり「心の有り様」の共有でしかない。
つまり、俺のnoteに限って言えば検索エンジンを使って検索してくるヒトが求めている価値を提供していないケースが圧倒的に多いと思うわけだ。
だとしたら、俺のnoteを「読んでもらう」ことで価値を感じてくれるヒトってどんなヒトなんだろうか?
「伝わること」の価値
noteには詳細なアクセス分析機能がないので、確かなことは言うことが出来ないんだけれども、きっと俺のnoteを読んでくれるあんたは、俺のTwitterやらFacebookやら他のSNSやnote自体で俺とつながりを持ってくれているヒトが大半だと思うんだよ。
つまり俺という個人をイメージできるヒトが大半だと思うんだ。
そうなってくるとnoteで俺が表現している内容の持つ意味が検索エンジンでたどり着いてくれたあんたと違う様になってくる。
検索エンジンでたどり着いてくれたあんたにとって、このnoteは「情報」だと思うんだけれども、俺という個人をイメージしながら読んでくれているあんたにとっては「意見」になると思うんだよね。
同じ記事を読んでも「そう言うものか」って思うのと「そう言う風に考えるのか」って思うのでは結構意味が違うじゃん?
多分俺は「そう言う風に考えるのか」って思ってもらいたくてこのnoteを書いていると思うんだ。
「情報」を渡したいんじゃない。
「意見」を伝えたいんだ。
伝えるために必要なこと
じゃあ、その「意見」をあんたに伝えるためには何が必要なのか?
兎にも角にも俺という個人をイメージできる状態だよな。
俺という個人をあんたがイメージ出来るためには何が必要なのか?
結局の所は、俺という個人に対していかにあんたが意識することが出来るタイミングを多くしていくかってことに尽きるわけだ。
つまりは、しっかりと色んなヒトとのコミュニケーションを大事にとっていくってことだ。
俺たちがガキンチョの頃は、学校という場所で強制的にコミュニケーションを取る状況にあった。
そして社会に出てからは仕事仲間とのコミュニケーションが用意されていた。
ところがニューノーマルな世界観ではこのコミュニケーションってのは意識して取るようにしないと取れなくなってきているとあんたも思わないか?
そして、それは同時に仕事場という環境に俺たちのコミュニケーションが縛られなくなっていることを意味する。
より自由に俺たちはコミュニケーションを取れるって捉え方も出来るわけだよな。
でも自由というのは指針がないとも解釈できる。
一体、俺たちは誰とどんなコミュニケーションを取るのが良いのかなんて、誰も教えてくれないもんな。
なあ、あんたはどう思う?
俺たちは、誰に俺たちを感じてもらいたいんだろうか?
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