優しさの意味
あんたにもヒトに優しくするときってのがあるかい?
具体的に行動に移す前であっても、「あ、なんか優しくしてあげたい」って感情が沸き起こることって誰でもあることだと思うんだよな。
まあ、ものが感情だけに客観的に評価することなんて出来ないから、あんたが俺と同じ「優しくしてあげたい」って感情を持っているなんてことは証明出来ないし、比較なんてもっと出来ないんだけれどさ。
それでもなんとなく思うわけよ。
あんたも誰かに優しくしたいって思っているに違いないってね。
そのあたりは、もはや俺の好みだな。
そうあってほしいと俺が勝手に思っているってわけだ。
そんなふうに「誰かに優しくする」ってのは俺にとって魅力的な行動であり、考えなんだけれども、ふと考えるわけだ。
なんでヒトに優しくするってのは魅力的に感じられるんだ?
今回はこの優しくしたいって感情について考えてみる回だ。
ちっとヒトって生き物が抱えているこの感情をほじくってみようぜ。
優しくする理由
で、あらためて「優しくする」ってどんな行為なのかって具体例から考えてみるとするかね。
例えば仕事で行き詰まっているやつがいて、そいつに声をかける。
これはその行為が相手にとって有益なものかどうかは置いておいて、行為そのものは「優しくする」って行為だよな。
荷物を重そうに抱えているヒトの荷物運搬を手伝ってあげる。
これはこのご時世だと犯罪を疑われかねない諸刃の剣だけれども、やっぱり本質的にはこの行為は「優しくする」ってことに違いはない気がする。
いかんな。
どうもオッサンの癖で「優しくする」と言う行為の裏側にある何かを考え始めちまうんだよな。
そう、優しくする「理由」ってやつだ。
感謝されたい。
そう言う何かのベクトルの向かう先が自分自身に向いているってことがメインの理由なんだろうか?
もちろんその要素も普通にあると思うけれど、いつも書いている通り、ヒトの感情ってのはそんなふうに制御可能なものじゃない。
いつ何時、その感情が湧き上がるかなんてことをヒトはコントロール出来ないんだ。
そんなこと言ったら感情の「理由」なんて考える意味がないだろって?
個人って位置から見たらそうなるかもしらんなぁ。
ヒトにとっての優しさの意味
で、個人の観点から「優しさ」を客観視するのが難しいってんなら、ヒトという生き物として「優しさ」と言う感情がプログラミングされている理由って観点で考えてみるかね。
その観点で考えてみると、「優しさ」ってのがヒトと言う生き物が生き残るために必要な要素だったという仮定を思いつくわけだ。
想像するに「優しさ」ってのは高確率で「感謝」って感情が起きる。
そして「感謝」は新しい「優しさ」を生み出すキッカケになるってのはワリカシ自然な流れだとも思うんだよな。
こうして感情の循環が生まれて、その結果として生き物全体としての生産性が上がっていく。
特にヒトという生き物が「他の個体と物語でつながって協力する」と言う特殊能力を持っているってのが効いてくる。
ヒトの生き残り戦略が「協力」だとすれば、たしかにこの感情の循環ってのは効率的に働きそうだ。
そこで、ふと観点を個人に戻してみる。
あれ?
俺たち個人としては、ヒト全体の効率性のために「優しく」しているのか?ってね。
自らの中に求めるもの
このヒト全体の効率って言葉と自分の中にある優しくしたいと言う感情は、感覚的には直接結びつきはしないんだよな。
なんつーか、そこまでキッチリ計画的に感じられていないってのが実感なわけだ。
感情の発生が個人にとって制御不能なことだって前提で考えれば、この違和感ってのはあって当たり前のようにも感じられる。
じゃあ、ちっとアプローチを変えてみるか。
なんで俺たちは「誰かに優しくしている俺たち」がスキなんだ?
巡り巡って誰かに優しくするってことは自分へのメリットとして返ってくるってのを経験則として持っているからか?
でもそんなにヒトって先の先まで見越して行動するもんかね?
考えあぐねて、無理やり言葉にしてみると、こんな感じになるかもしれない。
「明日の俺に褒めてもらいたい」
言い換えれば後悔したくないって言うワリカシネガティブな言葉にも出来るかもしれないけれど、本質は自分が自分に求める形を模索し、実現するために進み続けていたいって感情だ。
そう考えると、今日の俺が昨日までの俺を褒めるって行為もしていったほうが良いってことかもな。
なあ、あんたはどう思う?
俺たちにとっての「優しさ」の意味ってなんだと思う?
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