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やせ我慢の美学

あんたには美学ってやつがあるかい?

男なんだから、女なんだから、というジェンダーやセックスに関する美学ってのもあると思うけれども、最近の世の中だとワリカシ叩かれやすい感性ってことになるのかもしれない。

ただ、そう言う価値観があるってのも現実なんだよな。

じゃあ、本質的にはその価値観すらも「多様性」の一部になるわけなので、その感性を取り上げて「オマイは間違っとるんじゃ!」って正義の味方を気取るのもやっぱし円滑なコミュニケーションをするための障害になる気がする。

今回は俺たちの中にある男らしさ、女らしさって価値観について考えてみる回だ。

まあ、ちっと俺たちの中の価値観ってやつを眺め直してみようぜ。

男らしさと女らしさが求められる背景

今回、この男らしさと女らしさというキーワードをくれた記事がある。

いつもみんな大好き。ももまろさんの記事だね。

ってか、ホントエモい記事をいつも書くよなぁ。じぇらし~を感じるぜ。

なんつーの?結論に向かっていない文章なのに、読み手が結論を想像せざるをえない文章っての?

マジで読んでみて欲しいぜ。

で、この記事の大部分で描かれている「オッサンは男らしさを求められている」って話。

そのことを考えてみると、ちょっと思ったことがある。

あれ?今の世の中ってさ。
オッサンもオバサンもナウでイナセなヤングでも。
誰も彼もが「男らしさ」ってのを求められてないか?

男らしさと書いてやせ我慢と読む。

そう考えてみると、今の世の中では多くのヒトがこの「男らしさ」ってのを求められていて、そしてそのやせ我慢の結果として世の中が回っている気がしたんだよ。

何?男性は経済的に有利なケースが多いから、その対価としてのやせ我慢は理屈に合うけれど、女性は経済的に不利なケースが多いからやせ我慢の対価をもらえてないって?

そう言う意見もあるかもな。

俺が言いたいのは、男性にしろ女性にしろ老いたヒトでもナウでイナセなヤングにしても、何かしらを我慢していて、何かしらかの益を得ているってのが現実なんじゃないかってことね。

つまり生きている以上は我慢ってのは避けようがないってことだ。

反出生主義って言葉

そんな我慢の連続でしかない人生に意味があるのか?

そんなキーワードを思いついちまったときに、ちょっと前に知ることができた反出生主義という言葉を思い出した。

ざっくり言えば子どもを産むことは子どもに対する暴力だって考えらしい。

自分は子どもを産まないとかじゃなくて、全人類は出産をやめたほうが道徳的だって考えらしい。
なぜか?

だって人生を歩む以上は何かしらの苦痛を感じることになる。

この世に生まれてこなければ、感じることのなかった苦痛だ。

その考えを聞いたときに「いや幸せもあるじゃんか」って思った。
それに対してはこう言う理屈らしい。
苦痛と幸せが仮に同じだけあったとしても、ヒトは苦痛を記憶する。
なぜなら苦痛を避けるという欲望は幸せを求める欲望よりも強いから、ヒトは苦痛を抱えながら生きることは必然だ、と。

たまらなく理屈としての強固さを感じるじゃんか。

やせ我慢の美学

とは言えだ。

俺自身はこの反出生主義って考え方は「好きじゃない」。

間違っているって言えるほどの理屈を構築できるわけじゃないが、「好きじゃない」んだ。俺の感情は。

なら、その「好きじゃない」って俺の感情を支えてくれる屁理屈が必要になる。

考えてみたんだけれどさ。

「やせ我慢」をしている自分ってさ。
案外俺たち好きじゃね?

自分たちのやせ我慢で、どこかの誰かの未来が開けていけるって感覚。
好きじゃね?
ヘロヘロになって働きながら「おもしれーじゃねーか」ってつぶやく自分のこと好きじゃね?
子どもたちが困っているのを真剣に考えて悩んでる自分のこと好きじゃね?

目の前で困っているヒトを救うためにシンドいことをしてる自分って好きじゃね?

なあ、あんたはどう思う?

俺たちはこのやせ我慢を楽しみながら生きていけると思うかい?

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