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「#1人の時間」の意味

あんたは一人の時間ってのを取れているかい?

なんかいつも読ませてもらっているももまろさんが企画を紹介してくれている。

なるほど。
一人の時間ってテーマで語りなさいなってことね。

まずもってだ。
俺は一人暮らしの期間がまあまあ長かったわけよ。
しかも、ボッチなのがワリカシ心地よくてさ。
彼女も居なけりゃ、友達も居ないってって状況がホント10年くらいあったんじゃないかな。

そんとき何をしてたんだってなると、なんとなくゲームして、なんとなくアニメ見て、なんとなく仕事してた気がする。
休日に突如仕事に呼ばれるなんて普通の世界だったし、なんなら飲み会の最中にトラブルの起きちまったお客様に飛び込んでいったよ。
そのお客様のこと何も知らない状態でね。

つまり、その時の俺にとっては「一人である」と言う状態が「誰かといる」と言う状態とあんまり変わらなかったんだよな。

そこに苦痛を感じることもあんまりなかったんだ。

俺にとって「誰か」はあんまり意味を持っていなかったんだよな。きっと。

今回は一人であることの意味を言葉にしてみる回だ。

ちっと俺の日常話に付き合ってくれよ。


家族との時間

今はね。
家族を持たせてもらって、俺のことをうざったがりながらも一色暮らしてくれている家族がいる。

まあ、何度か言っている通り、俺は理屈っぽいからさ。
妻も俺に話を振ってくるくせに、その話に対して「回答」みたいなのを返すと「もおいい!!」って俺とのコミュニケーションをいやがるわけよ。

まあ、そりゃそうだ。
一般的に自分の「問題点」を言葉としてぶつけられたら嫌な感情が湧き上がっちまうもんな。

で、それに対して「なんだよ。困っているっていうから解決策を考えたのに」なんて言うめちゃくちゃステレオタイプの感情の応酬が起きる。

息子にしてもさ。
普段は俺は無口な方なんで、いざ俺が息子に話しかけると「やべ!」って思うんだろうな。
そりゃあもお、まっすぐに俺に瞳を向けてくるわけだ。
「正解を教えてくれ」と言わんばかりにね。

ぶっちゃけ、正解なんて持ち合わせてないから、感じていることを伝えるわけだけれどさ。
それによって息子の考え方が決まっていくって考えると、俺の考えごときを押し付けるわけにも行かない。

息子自身に考えることを促すようにするわけだけれど、当然息子だってものすごく限られた世界で得た情報で考えるから、どうしたってあらが見えるような言葉になる。

そらしゃあねえし、かと言って俺自身が完璧な回答を持ち合わせているわけでもない。

なんか逃げの言葉だけれどさ。

ヒトと一緒にいるってそう言うことなんだろ?きっと。

一人の時間

でね。
例えばこのnoteを書いている時間。

これは俺の一人の時間だと思うんだ。
その時に俺はどう感じているのか。

いやあ。
やっぱり「考えている」んだよな。

何をって?
家族のこと。
友人のこと。
仲間のこと。
誰かのこと。

ヒトのことを考えているんだ。

誰とも一緒に居ないときに、誰かのことを考えているんだ。

ぶっちゃけ、これを読んでくれたあんたが何を感じるんだろうって考えているわけだ。

一人暮らしをしているときの俺はこんなに「考える」ってことをしてこなかったと思う。
そら、仕事のトラブルとかあるからさ。
それをなんとかするとか言うことに頭を使うことはあったよ?

それとは違う、ヒトを「考える」ってことね。

なぜあのヒトはそう感じるんだろう?
あのヒトが求めていることはなんだろう?
家族はどうやれば幸せになれるんだろう?

それを「考える」。

俺にとって、一人の時間ってのはそうやって使われている気がするんだよな。

家族を含めてさ。
俺以外は俺じゃないヒトじゃん。

心を共有出来ない以上は、「考える」しかないと思ってるんだよな。

なら俺の時間をさ。
俺以外の誰かのことを「考える」時間にすることに意味はあるんじゃないかって思ったりするんだよな。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちの一人の時間の使い方にどんな思いを込めていこうか?

#1人の時間

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