周りを幸せにする言葉遣い
あんたも誰かに敬意を払うってことってあると思うんだ。
素晴らしい仕事をし続けるヒトを見たりすると、そのヒトに対して普通に尊敬の念ってやつを感じるんだよな。
もちろん仕事だけじゃなくて、「このヒトの言っていることって結構な背景を背負ってる言葉だよな」なんて感じるときもそうだ。
そう言う行動や発言に対して直接的にそのヒトの素晴らしさを感じられるってのは、その感想をもたせてもらった俺自身を幸せにしてくれる。
そこで、ふと思う。
直接そのヒトの行動に感銘を受けなくても、そのヒトに敬意を払うってシーンは普通に世の中にあるんだよな。
今回はこの敬意ってやつについて考えてみる回だ。
ちっと俺たちの人間関係ってのがどう成り立っているのかってやつを考えてみようぜ。
かつて存在していた年功序列って世界観
俺たちがガキンチョのころは親の世代がバリバリに働いていたわけだけれども、その頃の雇用形態ってのは、一生同じ会社で働き続けるってのが普通の感覚として存在している世界だった。
そう言う世界だと、どうしたって人間関係ってのが固定化していくので、その世界でどれだけ経験を積み上げているのかってのが、直接の成果に結びつく仕事よりも重要な意味を持っていたんだと思う。
結果として年長者との人間関係を良好にすることが、全体としての成果を最適化するための手段だったわけだ。
ところが良いか悪いかは置いておいて、雇用の流動性が高まっている現代においては、「個人としての成果」でのみヒトを評価するって必要性が出てきている。
俺がワカゾーの頃は、まだ人間関係ってやつが評価につながっているって現実は残っていたけれども、今は成果に結びつかない人間関係ってやつの価値はだだ下がりになっているってのが俺の実感なんだよね。
人間関係の取捨選択は難しい
とは言えだ。
俺たちはその人間関係が仕事の成果につながっているかどうかなんてことをそのヒトと会った瞬間に判断するってのは無理があるじゃんか。
パット見で「やり手」に見えるヒトがそうでもないとか、その逆とか。
そんなんは日常茶飯事だもんな。
まあ、どんだけヒトを見る目がないんだって話かもしれないけれど。
で、見分けられないんだから、とりあえず俺たちは接するヒト全てに対して無難な対応をするってのが求められるわけだ。
年功序列が世界観として定着しているなら、年長者に対して悪い印象を持たれないようにしていれば良かったかもしれないが、今の世界観だとそうもいかない。
八方美人でなければ生き残っていけない世界ってわけだ。
言葉遣いというツール
で、この八方美人ってのをこなすのにも才能がいるってのが現実だとも思うんだ。
八方美人でいられるヒトって、相手の良いところをメチャクチャ短期間に見極める能力があるヒトって感じがするしね。
すごいレベルでそのヒトの能力を見極め、なんなら能力として開花していない部分を掘り下げる様に誘導して、Win-Winの関係を構築する。
そんなやつ、あんたの周りにも一人くらいいないかい?
俺のような凡人にはそんなマネは出来ない。
でもみんなで幸せになるために俺たちオッサンはそう言う器用さを求められるってのはあるじゃんか。
そこで使うのが「言葉遣い」ってツールってわけだ。
無闇矢鱈に敬語を使えばいいってわけじゃなくてTPOに合わせた言葉遣いを心がける。
例えば、あんたの上司があんたが思いつかないような観点で仕事をこなしているのに出くわしたとするじゃんか。
そこで「流石ですね」って言うのが正解の場合と「……すげぇ」ってひとりごちるのが正解の場合があるって言ったら伝わるかな。
相手の仕事が自分にはない経験に裏打ちされた行動なら前者だし、発想力のような飛び抜けた何かによるものなら後者だと思うんだ。
そして、その言葉は自分の感情が乗っかっていないと意味がない。
その意味では自分の中に湧き上がってきた感情をいかにポジティブな表現に乗っけるかって技が必要ってことなのかもしれないね。
なあ、あんたはどう思う?
俺たちが周りのヒトをみんな幸せにするような言葉遣いを俺たちは身につけるために何ができるんだろうな?
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