俺たちの核にある何か
あんたは素の自分ってやつをどう表現できる?
ももまろさんが「素の自分」ってのをテーマに書いてくれていたんだよ。
求められたら答えるというスタンスで過ごしてきたけれど、自分が求める自分ってのをきっちり見ていっても良いよね?って感じなのかな。
読ませてもらって「ははあん、なるほど」と思いつつ「あれ?俺の素ってなんだ?」と疑問も浮かんできたわけよ。
あんたはもしかしたら「素の自分」ってのを明確に意識出来ているのかもしれないけれどさ。
それでも、自分の感覚ってのがよく分からなくなるなんてことは普通に起きるじゃんか。
今回は自分の素ってやつを考えてみる回だ。
あんたも一回、自分の素について考えてみないか?
自分のコア
いや、ぶっちゃけね?
俺に対する周囲のヒトの評価を聞いたらさ。
頑固者。理屈屋。
そんな言葉が出てくると思うんだよ。
なんつーの?総称すると「めんどくせえやつ」ってやつ。
基本、誰かを安易に否定したくないって思いながら過ごしているわけだけれど、否定するときはきっちりその理由を用意しなければいけないって思いながら日々の発信をしているんだよね。
それゆえに、俺に否定されたヒトってのは、逃げ場がその瞬間なくなることが多いと思うんだ。
いや、わかるよ?
意図的に逃げ場を用意しながら自分の意見に導いていくってのが誰も傷つけないやり方に近いってのはさ。
でもさ。
俺はそんなに頭がよくないからさ。
「おかしい」って思ったら「なんでおかしいのか」ってことだけに集中しちまうんだよね。
「そのヒトはおかしい」ってのはなくて「その意見はおかしい」って整理をしたくなっちまうんだ。
例えば、竹中平蔵さんという御仁がいる。
彼の意見はどうにも俺の考えと違うことが多い。
特に横文字でなにかを煙に巻くような説明をするのは悪手だと思う。
でも、なんとなく、タイマンで話せば意気投合できるのかもしれないとも思ったりする。
俺にとってはヒトってのはどうしたって「信じたい存在」なんだよな。
なぜヒトを信じたいのか
じゃあ、なんで俺はヒトを信じたいのか。
これは単純な言葉の裏返しで、俺はヒトから信じられたいからなんだろうな。
まあ、誰だってそうだろうけれどさ。
自分のことを認めてもらいたいって欲求を持っている。
だってヒトって生き物は社会という集団で世界を生き抜いてきたんだもんよ。
特に日本という地域では地震や気候災害などの多くの天災が繰り返し襲ってくる土地柄だ。
協力するってことが文化として定着していないと生き抜けなかったんだ。
だからこそ、村八分のような「組織に属せない」ということに対する危機感を植え付けて文化が作り上げられてきた。
この感覚は「素の俺」にも脈々と受け継がれているってことなんだろうな。
求められたことに答えたいという感覚
そこで、ふと考えてみる。
ももまろさんの求められたことに対応してきたってのも、もしかしたらももまろさんの素なんじゃないか?ってね。
だってそうだろ?
誰にだって「誰かの役に立ちたい」って感覚はあると思うんだ。
その「誰か」が家族だったり仲間だったりするけどね。
そしてその「誰か」が社会通念上の誉められたヒトじゃないケースもあるだろう。
でもその「誰か」が誰であろうともさ。
みんなが幸せになってほしい。
そう感じる感覚ってのは俺たちの根っこの方に有るんじゃないか?
そう考えるとさ。
俺たちって実はみんな「良いやつ」なんじゃないか?
根っこの方に誰かの役に立ちたいという思いを抱えながらだ。
世の中の仕組みだったり、人間関係のしがらみだったりで、俺たちはその素の自分の周りにこびりついたなにかをどんどんくっつけていく。
そして気づいたら「俺たちも丸くなったよな」なんて言い合ったりする。
そらそうだ。
こびりつくものが多くなればなるほど、ものは球体に近づいていくもんな。
なあ、あんたはどうだい?
あんたにこびりついた中心にあるものってなんだと思う?
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