ヒトと会う価値
あんたは二度目の緊急事態宣言の解除のニュースを聞いてどんなふうに思った?
宣言解除ってどういうことよって思ったかもしれないよな。
実際に解除されてから確実に感染拡大は起きているわけだし。
ただ、経済活動の源であるヒトの往来ってのが制限されているってのは宣言解除をされてもあまり変わりがない。
自粛を続けなければ感染の拡大は止められないってことを誰もが理解しているからね。
政府としても緊急事態宣言から蔓延防止法適用っていうなんとも政府支出を抑えたいだけなんじゃないかよって言いたくなるような手段を使ってきている。
まあ、それでも自粛疲れなんて言葉で表現されるように、ヒトの往来を完全に止めることは事実上不可能なことだ。
なんで不可能なのか?
ヒトはみんなで協力し合うことで世界を生き延びてきた生き物だからだ。
ヒトはヒトと会うことを本能的に求めているってわけだな。
今回は、このヒトと会うってことが俺たちの何を満足させているかってことを言葉にしてみようって回だ。
たまらなく抽象的な話になるかもしれないけれど、付き合ってくれよな。
堀江貴文さんもスナックを推奨している
この自粛ムードの中にあっても、飲食店の生き残りのためには戦略がいるってのは結構な共通認識だと思う。
堀江貴文さんはその戦略の一つにスナックってのを挙げているらしい。
要するにヒトを中心に飲食業というものを捉える必要があるよねってことなんだって読み取ったんだけれども、同じことを西野亮廣さんも前田裕二さんも言っているんだよな。
ヒトとの関係性を持つってことの価値をこのお三方が口を揃えていっているわけだ。
実際、俺の中でもヒトと実際に会うことで、そのヒトのためになることなら協力したいって思えるようなヒトが何人も出来た。
そこには「このヒトと協力関係を作っておけば得だよな」って感覚よりも「このヒトと一緒に喜べたら楽しそうだよな」って感覚が先行している。
これって何によって生まれる感覚なんだろう?
実際に会う事によって得られるもの
この感覚を考えてみると、どうも実際に会ったことのあるヒトの方がその感覚が強くなるってのは現実としてあるっぽい。
でも、オンラインでこれだけやり取りが普通にできる世界にあって、実際に会うことで得られているコトってなんなんだろう?
これが実は俺としてはまだ腑に落ちていないんだよ。
実際に会うことと、オンラインで会うことにどんな差があるのか?
空気感とか雰囲気とかそう言う漠然とした言葉には出来るんだけれども、それが何によって俺たちの中に出来上がっているのか?
実際に会っているとは言え、日本人の交流スタイルからすれば握手みたいな触覚を刺激されるような交流は無いだろうし、味覚や嗅覚を交流する相手から直接刺激されることもあまりない。
視覚と聴覚はオンラインでも十分に共有されているはずだ。
じゃあ、俺たちはどの直接ヒトと会うことでどの感覚をもってそのヒトと「会っている」と感じているんだろう?
例えば、将来的にバーチャルリアリティ技術の発展によって、あたかもそこ相手がいるように感じ取れるような会議が出来たとしたら、現実の場でヒトと会うってことは意味がなくなるんだろうか?
リスクの上に成り立つ信頼関係
これは俺の想像に過ぎないんだけれども、どれだけバーチャルリアリティの技術が発展してもヒトが会うってことの価値は無くなることはないんじゃないかって思うんだ。
なぜかって?
ヒトって誰とでも協力できるもんじゃないって前提があるからだ。
意味がわからないよな。
つまり、「このヒトとはわかり合えないでケンカになってしまうかも」ってリスクを共有した上で、それでも相手を尊重できたって事実が大切なんじゃないかってことね。
オンラインではいくら険悪になっても回線を切ってしまえば物理的な被害を受けるリスクは軽減される。
ところがオフラインで実際にあって話をして険悪になったら、下手すれば相手から殴られてしまうかもしれない。
そう言うリスクを乗り越えて「このヒトと話すと楽しい」って感じられたってのはリスクを乗り越えた分だけ、達成感みたいなものが生じるんじゃないかって思うんだよね。
その意味では、当面の間、ヒトと会うってことの価値は下がることはなさそうだ。
その前提で俺たちはどう過ごすのが正解なのか?
なあ、あんたはどう思う?
俺たちはどうやってヒトと会い続ける事ができるんだろう?
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