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否定することとされること

あんたは社会の中で生きていく中で、相手のことについてあれやこれやと考えることってあるかい?

まあ、逆に誰に対しても何も感じないなんてやつがいたら、やべーやつか聖人かのどっちかと思うけど、この誰かに何かを感じたときの自分の中での言語化ってすげー繊細な話だと思うんだよね。

俺らの世代みたいなロスジェネ世代では、生まれた時からライバルが周りにえげつないくらいにいる世界観で育ってきたので、ついつい「自分の方が優れている」だの「劣っている」だのって観点を持ち込んじまいがちだ。

ところが、現在の世界観ではそう言う「どシンプル」な感覚だけでは相手のヒトを正確に捉えることが難しい状況になっている。

今回は俺たちが相手に何かを感じた時にどうやって言語化していくのが良いのかを考えてみる回だ。

ちっと、ヒトについての印象ってやつについて考えてみようぜ。

誰かを否定すること

今回この事を考えるきっかけをくれたnoteがあるんだ。

みんなの人気者ももまろさんのnoteだね。

おそらく「ポジションを認識したことでマウントとるのいくないよね」ってことを書いてくれているんだと感じたんだ。

そらそうだなぁ、と思いながら、そう言えばなんで「マウントを取りたい」って感情は起きるんだろうって思ったりもしたんだ。

だってさ。
たとえばももまろさんの書いている様にnoteでのコメントで優劣みたいなものを感じたとして、それによってマウント取ることそのものが生み出すメリットって具体的に想像すると全然思いつかないじゃんか。

あれかね?
自分の今の状態を肯定するための道具として誰かのnoteの記事を使うって感覚かね?

それで、その日の自分が前向きになれるってんなら意味はあるかもしれないけれど、誰かの何かの意見に対して否定することで前向きになれるってんなら、そのヒトはハナから前向きになる才能がある気がするじゃんか

俺の場合は何かを否定するようなことを書いちまうと、それだけで気分が落ち込んじまったりするんだよな。
#豆腐メンタル

自分の中のものさし

マウント取りたいんじゃなくて、シンプルに自分のものさしに照らして「ちっと違うくね?」って思うケースもあるかもしれない。

いや、あんまりないけれどさ。
例えば「ばーかばーか」ってシンプルに悪口書いているようなnoteがあったとしたら、「おまえのかーちゃんでべそ」と小学生ばりに反応したくなったりすんのかね?
すんのかもしれない。
#少年の心

そう言う少年に立ち戻る様なケースはおいておいて、自分の中のものさしではどうしても許せないようなことを感じることはあるのかもしれない。

例えば、政治の話題とかではそう言うことって起きがちかもしんないよな。

俺だったら今の時点でプライマリバランスを維持しなきゃって意見を聞いたら違うじゃんかって言っちゃいそうだし。

ってか、書いてた。

この記事を書いたときはマウントを取りたいわけじゃなくて、シンプルに自分の意見とは明らかに違う意見があったので、そもそもその違いってやつを整理してみることで何かを生み出すことが出来るんじゃないかって思って書いてたんだよな。

そうすることで、自分自身の考え方の幅を広げたり出来ないかみたいな感じね。

差別的な表現

で、ちと振り返ってみる。

俺はさっきの記事で「差別的」になってしまっているんだろうか?

改めて読み返してみると、俺は元記事を書いてくれている鶏モツさんにある意味のリスペクトを持って書いていたんだよな。

その上で、その書いてある事実の確かめと、自分の中の感覚とのギャップを整理してみることで自分の考えを整理してみる感じ。

なので、俺としては「差別的」とはなっていないつもりで書いてみていたわけだ。

でもさ。
この「差別的」ってめちゃくちゃ難しいんだよな。

たとえ言っている内容が「事実」だったとしても認識するヒトからすれば「差別」になることもある。

なんだろ?女性専用車両ってのがあることに対して「男性差別だ!」って意見があるような感じ?
確かに男性が女性に対して痴漢をするケースが多いって統計はあるかもしれないけれど、俺はそんな事してないぞ的なやつ?
※香坂兼人自身は女性専用車両が男性差別って感覚は微塵も持っていない

そう考えてみると「何を表現したいか」と「何と解釈されるか」ってことをバランスをもって表現する必要があるってことだよな。
実に難しい。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちはどこかの誰かの感じ方を受け止めながら表現を続ける事ができると思うかい?

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