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自己肯定感の源

あんたも「自分の価値」なんてキーワードで物事を考えることがあるかい?

俺たちオッサンにとって、ビックリするくらいにヒトから評価されることってのは息を吸うくらいに自然なことだよな。

商談が取れるのか。
若者を育てられるのか。
家族を幸せにできているのか。

ありとあらゆる「問いかけ」が俺たちオッサンに向けられているように感じ続けて日々を過ごしている。

でも、まあ「自分が自分であることを否定しなくて良い」なんて言葉を色んなとこで聞くじゃんか。

今回は自分以外のヒトと自分自信の評価について考えてみる回だ。

まあ、あれだ。
オッサンの戯言なんだけれども、付き合ってくれるだろ?

自己肯定感というキーワード

今回「評価」というキーワードをくれたnoteがあるんだよ。

コミヤジさんはワリカシ俺のnoteを読んでくれている奇特な御仁なんだけれども、コミヤジさんがnoteを始めるってんで読ませてもらったんだよ。

何、このエモいやつ。

テーマを設定して、そのテーマに対する論理展開をしていくのかと思いきや、シンプルに感情と言う側面で表現している。
ザ・エッセイだ。

感情を表に表現しているからこそ「裏」ってものに思いを馳せることなく読める。
まあ、読んでよ。みんな。

で、このコミヤジさんのnoteを読んで骨子を一言でいうとこう言うことなのかなって思った。

全てのヒトが発信者になった世界では常に評価が数値化されるので常に結果に翻弄される。

……全然一言じゃないな。
まあ、いい。

確かに俺のnoteでもアクセス数だったりスキの数だったりと、様々な数字が確認できる。
スキに至っては見るだけであからさまな形で誰でも確認が出来る。

その数字は自分の存在そのものに対する評価のようなもんだ。
そんな捉え方も出来るよな。

その評価され続ける世界で自己肯定感は毀損され続けていく。

そう言うことを書いてくれていたんだよね。

評価されるという事実

で、あらためて考える。

俺たちは誰かに評価されることで自己肯定感を維持することが難しくなるんだろうか?

何?評価されるんだから自己肯定感が低くなるのは当たり前だろって?

俺も一瞬そうかなぁって思ったんだけれども、そんなこと言ったら俺たちは自己肯定感なんて俺たちが持てる瞬間なんて無かったはずじゃんか。

だってそうだろう?
確かにSNSを経由した評価ってのは世界中からの評価って話になるけれども、そうではない評価だったら俺たちオッサンでもガキンチョの頃から受け続けているじゃんか。

学校の成績だったり受験だったりさ。

でも、そんなん気にしてたら東大やら京大に行けなかったやつはみんな自己肯定感を手に入れられないってことになっちまうじゃんか。

そこではたと思う。

あり?俺たちは何で自己肯定感なんてものを感じているんだ?

自己肯定感の源

そもそも自己肯定感ってなんなんだって話だよな。

色々書いてあるけれども、一番のポイントは「主体性」なんじゃないかって思って読んだんだよ。

つまり自己肯定感ってのは、評価基準を自分の中にどれだけ持てるかってのがポイントだと思ったわけよ。

評価基準が自分の中になかったら、常に誰かに評価されるって状態にならざるを得ない。
まあ、そりゃ理屈だよな。

逆に自分の中に評価軸を持つことができれば、外部からどんな評価を受けようとも自己肯定感には影響しないってスンポーだ。

問題はその自分の中の評価軸をどうやって持つかって話だよな。

教科書的な答えになっちまうけれど、それって最終的な「なりたい自分」を想像するってことなんだよな。

そして、その最終的な姿に向かっていく道を想像する。

その道ってのは状況によってどんどん道筋を変えていい。
でもゴールは変えない。

そのときに見えている道に乗って歩いているって感覚。
それが自己肯定感ってことなんだろうなぁ。

だからこそ、道を見極める。
それを日々続けていくしかないんだろうな。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちは俺たちを肯定する根拠になる道が見えていると思うかい?

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