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会話の楽しみを取り戻せ!

あんたも若者と話す機会ってのがあるかい?

部署異動になってからこっち、びっくりするくらい若いヒトと話す機会に恵まれている。
オッサンが右も左も分からない状況になっているもだから、若者としては「頼りないオッサンがきたぞ」くらいの感覚で普通に話しくてくれているのがありがたい。

で雑談で政治のことやら歴史のことやら話してみると、結構俺の中で「当たり前」と感じていたことが共有されていないことに気づいたりする。

政府の借金は増やさないと俺たちが貧乏になるとか、ヒトが昔は複数の種類がいて、俺たちホモサピエンスは他のヒト族を滅ぼして今に至っているとか、石貨はクレジットカードと同じ仕組みで運用されていたとか、そう言うことを若者たちは感覚として持っていなかったりする。

その感覚なくして過ごしているって事実を新鮮に受け止める自分がいたんだよね。

今回は若者たちの会話風景を眺めてオッサンが感じたことを記録する回だ。

まあ、オッサン臭いこと極まりないけれども、付き合ってくれよな。

若者の雑談を眺める

仕事での話意外の雑談を若者がしているのを眺めてみると、ちょっとした気づきってのがある。

どうも、4人以上で同じ話題をするってのはあまりされないみたいだ。

昼食なんかで5人位で食事に行った時の雑談でも、普通に3人と2人に分かれて会話がなされている。
しかも隣に座っているヒトとかで話しているんじゃなくて、一人挟んだ先のヒトと会話してたりするので、会話が交錯する状況が自然と生まれている。
しかもそのことに違和感を感じている様子がないんだよな。

そこでオッサンは考える。
なんでこの状況は生まれているんだろう?
っていうか、オッサンの俺はこの状況になぜ違和感を感じているんだろう?

オッサンとしては、5人なら5人が同じ話題を共有するってことに意味があると思っていたりする。
たしかに10人くらいの飲み会ともなれば誰もが同じ話題に加わっているって状況は結構難易度が高いと思う。
話の方向性がアッチャコッチャになっちゃうし、何しろ話すヒトの求心力と言うか話術と言うか、そういうスキルも要求されるしね。

でも、5人位なら大した話の面白さも要求されずして誰かの話をみんなで聞いて、みんなでその話題について話すってのが仲間意識を高める効果も高いと思ったりするんだよ。

でも若者たちの雑談にはそれがない。
それはなぜなのか?

純粋に会話を楽しむ

想像するに、若者たちはオッサンの俺に比べて純粋に会話を楽しんでいるんだと思うんだ。

話したいと思うから話すし、聞きたいと思うから話を聞く。

結果として、話をしたいヒトと聞きたいヒトがマッチングして会話が成立するので、それが周りにいるヒトではないケースも普通に起きる。
場を和ませるとか、関係性を構築するって目的を伴っていないわけだから、会話相手を自分の興味だけで判定していくってのはある意味自然なのかも知れないよな

まあそうなると、オッサンの俺の言うことは若者たちの想定の外の話になるから、まあ面白さってのを感じることが出来ないってのはあるのかも知れない。
気をつけなきゃなぁ。

あんたも気をつけなよ?
今年入社の新人さんにはカムチャッカファイアーは通じないぞ。
#死語攻撃

効果を求めない会話

そこではたと考える。
俺たちはいつの間に純粋に会話を楽しめなくなってしまったんだろう?

仕事の会話。
家族の会話。
親戚との会話。
友人との会話。

その全てにおいて、「これこれこう言う目的で話す」ってことがあって初めて会話が開始されている。

目的がない会話ってのに違和感を感じているわけだ。
それは日常の会話ですらそうで、やれ息子の教育をどうするかとか、やれ仕事の調整がどうとか、目的のない雑談ってのは結構レアだ。

でも本来会話ってのはそうじゃないべ?
話すのが楽しいし、聞くのが楽しくて会話するんだべ?

若者たちの雑談は、その純粋な要素を多分に感じるんだよな。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちは純粋に楽しむ会話を取り戻せると思うかい?

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