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感情の価値と言葉の価値

あんたも人付き合いってやつについて考えることがあるかい?

感染拡大がまた日々のニュースで重点的に扱われていく状況の中で、またヒトと会うってことがリスクとして認識される状況になりつつある。

個人的には、ワクチンによる重症化リスクを低減していくってことを中心に、いわゆる伝染病ではなく、普通の流行性感冒として町医者でも扱える状況にしていくことが一番いいんじゃないかって思っているけれども、こればっかりは専門家の意見ってやつを尊重しないとイケナイやつだ。

で、現実的にヒトと会うことが難しくなっている中で、ふとした恐怖に襲われる。
俺、忘れられてないか?ってね。

今回は自分の存在と周りのヒトの存在ってものについて考えてみる回だ。

いつもと同じく結論なんて出やしないけれど、ちっと考えてみようぜ。

香坂兼人という人間を考える

まずは俺が一番把握しているヒト、つまり自分について考えてみる。

俺のnoteを読んでくれるあんたにとっては、どんな風に見えているのかってのは実はよくわかっていないんだけれども、俺自身が香坂兼人という人間を評価すると「理屈で世の中やヒトを眺めないと怖い人間」ってことになると思う。

ヒトである以上は、人間関係において感情ってのを完全に廃絶することなんてデキッコナイスなんだけれども、感情だけで物事やヒトを「評価」しちまうと、俺のオッサン経験上、あんまり良いことは起きないんだよね。

例えば、前にお会い出来た澤さんについてこんなことを書いている。

澤さんはスナックCANDYというスナックでの代理ママを定期的にやっている。
詳しい説明は端折るけれど、この代理ママってのはある程度のヒトが「このヒトに会いたい」って思ってくれないと出来ない仕組みになっている。

それだけ、澤さんに会いたいと思うヒトが多い御仁ってわけだ。

その澤さんと話してみて、物腰の柔らかさも相まってスゴイ好感を持たれるヒトなんだって感じたけれど、俺の感覚だけでそのことを評価するってのは「怖い」んだよ。
「お前の感覚はそれほど正しいのか」って常に思っちまう。

なので、俺は澤さんをスゴイって感じたら、そのまま澤さんという個性を評価した気になる。
実のところ、それのほうが失礼なんじゃね?って思ったりもするけれど、何しろ自分の感情に自分の行動を任せちまうのが怖くて仕方ないんだ。

他のヒトが感情を持つことを想像する

とは言え、感情に応じて生きていくことを否定したいわけでもなんでも無い。
ヒトという生き物が感情を持っている意味は絶対にあると思うし、その感情そのものに価値を感じることはメチャクチャあるもんよ。

誰かが何かを成し遂げた姿を見て満面の笑みをたたえているヒトを見たら、スゲー幸せな気分になるし、なにかに挫折して絶望しているヒトを見たら、問答無用でなんとかせにゃって思う。

誰かが何かを感じるってのは、それだけでスゴイ価値があるって思うわけよ。

誰かがなにかの感情を湧き上がらせるときって、それまでのそのヒトの経験だとか、現状の周囲の状況だとか、実に様々な要素が複雑に絡み合った結果だと思うんだ。

その積み上げられた偶然の結果として存在する感情。
それに俺は敬意を感じるわけだ。

そして、俺は俺の感情にはあまり自信を持てていないので、その感情が湧き上がるプロセスってやつを理屈で理解しようと試みる。
当然、間違って理解することもあるし、そもそも言葉にして感情を理解するってのは限界があるとは思う。

それでも、「自分が説明できないものに魅力を感じている」って状況そのものが怖くて仕方がない。

だって、それって自分にしか感じ取ることが出来ない魅力ってことじゃんか。
俺が魅力に感じているヒトのことを「魅力があるんですよ~」って誰かに伝えることが出来ないって意味じゃんか。

言い換えるなら、俺がスキなヒトをみんな知ってくれよ。
俺がスキなヒトを覚えておいてくれよ。
そう言う感覚の裏返しなのかもしれない。

そこで、ふと考える。

俺はどうやってあんたに覚えておいてもらえるんだろう?

なあ、あんたはどう思う?

俺たちはどうやって関わったヒトに覚えておいてもらえるんだろうか?

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