「愛される」ってこと
あんたもいろんな言葉について考えを巡らせることがあるかい?
毎日なんかの文章を書いていると、どうやら言葉ってやつについて考える時間が増えているような気もする。
よく見るようなフレーズについても斜め下から覗くように考える癖みたいな感じ。
最近、ちょっと気になったフレーズが見つかったんだ。
そのフレーズは「自分は愛されても良いと感じたかった」ってフレーズ。
たまに聞くフレーズだよな。
今回はこのフレーズについて斜め下から眺めてみる回だ。
まあ、俺のひねくれっぷりを眺めてみてくれよな。
「愛される」って状態
自分がまず気になったのがこの「愛される」って状態についてだ。
良く妻から「あなたは両親に愛されている」って言われたりする。
それそのものは否定する根拠もなければ、否定する動機もない。
そらそうかもね。で終わる話だ。
ただ、こいつをちっと考えてみると結構難しい。
「愛される」ってどういうことなんだ?
愛するってのの主な要素は感情なので、その主体は当然のことながら愛を感じているヒトの方にある。
で、感情だってことは、客観的に物理的に観測できるたぐいのものじゃない。
その感情を感じる事ができるのは感情を抱いている本人でしかないってことだね。
その前提で「愛される」って状態を考える。
客観的に観測することが出来ないものを「感じられている」って「感じる」こと。
何気に無理ゲーな匂いがしてこないか?
この虚構を確かなものとして自分の中に「感じる」ためには何が必要なんだろうか?
自分が「愛している」という状態を考える
じゃあ、まずは自分が「愛している」って感情を感じているって状態から整理していかないとだよな。
ところが、これまた難しい。
「恋している」ってのはジャスト感情だと思うんだよ。
ドキドキキュンキュンしたあのワカゾーの頃の感情。
オッサンになると経験上、ヒトのことを100%信じられなくなることで感じることが無くなっていくあの感情。
こいつは経験の中から掘り起こす事ができると思うんだ。
ところが「愛している」って状態は感情+αのものがあるような気がしているんだよな。
αの部分は「責任」だったり、「義務」だったり、「期待」だったりするケースがあると思う。
なんだろう?言葉にするのがひどく難しいんだけれども「恋する」って状態は個人で成り立つんだけれども、「愛する」は社会を必要とするって感じかな。
例えば子どもに対する愛情。
自分の子どもに愛情を注いでいる親は多数派だとは思う。
少なくとも毎日の食事を食べさせて、教育を施し、時には感情をぶつけ合う。
それだけで、愛情ってのは成立する気がする。
「愛される」という状態を考える
ところが「愛される」となると、さっきも書いた通り「愛する」状態が客観的に観測できないことを前提に考えると、自分が「愛される」存在だと想像できないと行けないことになる。
自分が子どもの頃に、毎日の食事を食べさせてもらい、教育を施してもらい、感情のぶつけ合いをしてもらった。
でもそれが「愛される」って状態だって感じられるとは限らない。
俺の場合は感じられたわけだけれども、誰かが同じ状況に置かれても同じ様に感じるとは限らないと思うんだ。
これって自分が「幸せだ」と感じることに似ていると思う。
「愛される」も「幸せだ」と感じることも、どっちも言い方が悪いけれども感じ方一つで変わるもんだってことだ。
そして、その感じ方ってやつはヒトという生き物にはコントロール出来るように出来ていない。
出来るのは自分がそう感じる状況を作り上げる工夫をするってことだけだ。
そう考えると一つの結論が見えてくる。
「愛される」と感じるために自分に何が必要なのかを整理して、周りのヒトにその必要なものを具体的に要求することで、「自分が愛されて良い存在」だってことを初めて感じられるってことだ。
ポイントは「具体的に要求する」ってこと。
そうしないとあんたが「愛されている」ってどうすれば感じるのかなんて、他のヒトに分かりっこないからな。
当然、要求したことが100%返ってくるはずはないので、返ってきたときに存分に自分が「愛されている」という感情を味わう。
こいつが唯一の手段だと思うんだよな。
なあ、あんたはどう思う?
俺たちは、具体的に何をされたら「愛されている」って感じられるんだろうな?
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