大人が子どもに残せるもの
あんたは親って存在が子どもにとってどんな存在なのかなんて考えることがあるかい?
たぶんだけれども、親ってのは子どもにとって最初の防波堤でありながら、最初に乗り越えないと行けない壁なんだと思うんだよな。
でだ。
今のネット社会において、大人が子どもにとっての防波堤になることって結構難しいことだと思う。
なにしろ、親の管理とかをすっとばして、ネットの暴風雨のなかに飛び込んでいく手段が子どもたちの手の中にあるんだもんな。
いくらでも「世の中の悪意」ってのを思春期のダイレクトに情報を心に届けてしまう子どもたちが味わっちまうってわけだ。
まあ、そういう経験を積むってのが今の世の中では求められるものなのかもしれないけれどさ。
徐々にそういう世の中の辛さみたいなものを経験していくことで俺たちは育ってきたわけじゃん。
いきなりだよ。
ダンジョンでボスキャラが入口で待ち構えているってのはちっと耐えられないだろ?
今回は子どもの人間関係について考えてみる回だ。
まあ、いつものごとく結論はでない話なんだけれどさ。ちっと付き合ってくれよ。
子どもにとっての世間
俺たちがガキンチョのころってさ。
めちゃくそ大人って存在がさ。
嫌だったじゃん。敵だったじゃん。
いや、親とか親戚とかは味方だったとは思うよ。
でも先生を含めた目に見える大人ってさ、めちゃくちゃ俺たちのやり方を否定してくる誰かだったと思ってた気がするんだ。
たしかにね。
先生の中で俺の人生感を作り上げてくれたヒトもいるんだよ。
荒木先生は確実に俺の人生を作り込んでくれた先生だと思う。
あの先生の言葉がなかったら、俺の世界に対する認識は確実に別のものになってたと思うんだ。
でもね。
俺がガキンチョの頃に接していた大人ってのは「邪魔」以外の何物でもなかったように思うんだ。
コンビニでの記憶
例えばだ。
近所のコンビニチックな店で「両替してもらえませんか?」と小学生の俺が意を決して頼んだわけだ。
答えは「ダメだ」。
比喩じゃなくジャスト「ダメだ」と言う言葉が返ってきたんだ。
いや、今になってみればダメな理由はわかるよ。
両替だってロハじゃできないんだから。
でもそれをさ。
子どもに説明しない大人ってどうなんだって今でも思うんだ。
ちなみにその店にはその事があってから二度と行ってない。
ってかそのお店もうないはず。
その「ダメだ」と言う言葉は俺にとって大人と言う存在に対する嫌悪感に直結してたんだよな。
子どもと大人
でね。
本質的に大人ってのはさ。
子どもを大人にするためにいるわけじゃん。
じゃあ、どうやって子どもは大人になれるんだ?
たぶん、「誰かのことを考えられる」事が出来たら大人ってことだと思うんだよな。
子どもの頃になんで大人を嫌っていたのか。
つまりは誰かのことを考えることを強制する存在の大人が嫌いだった。
だって、自分のことで手一杯だもん。
そりゃあ、自分の学校だとか将来の仕事だとかを考えたら、別のヒトの事を考える余裕なんてあるわけないわな。
でもさ。
そんなん大人だって同じじゃん。
つまり、おれたち大人はだ。
俺たち自身が出来ていないことを子どもに求めないといけないってわけだ。
これ、結構エグい話じゃないか?
子どもたちにとっても大人たちにとってもさ。
子どもにとっちゃ正解のない何かを求められることになるわけだし、大人にとっては正解のないものを正解と押し付ける義務を背負わされているってことだもんよ。
正解がない。
だったらどうするのか。
考えるしかないじゃないか。
子どもも大人も一緒になって考えるしかないじゃないか。
子どもはどうすればヒトのことを考えられるのか。
大人はどうすれば子どもが考えるための課題を提供出来るのか。
たぶん、大人ってのは子どもの敵で良いんだと思う。
ただ、子どもが大人になる道筋を提示していかなきゃならないってのは、おれたち大人が抱えているもんじゃん。
そう考えると、大人も子どもも考え続けないと行けない宿命が胸元に突きつけられているってわけだ。
なあ、あんたはどう思う?
おれたちは何からどうやって考えれば、次の世代の子どもたちが誰かのことを考える切っ掛けを作れると思う?
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