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子どもたちに伝えられている「正解のない正解」

あんたはヒトの優しさってのについて考えることがあるかい?

落とし物が戻ってきたり、仕事で困っていたら誰かが相談にのってくれたり、目の前に困っているヒトがいたら、何となく気にしてみたり、俺たちは実に多くのヒトに助けられているってのがあると思うんだよな。

日本の場合、明示的に宗教ってのを意識することはないヒトが多いと思うんだけれど、「お天道様が見ている」的な感覚ってのは何か魂レベルに刷り込まれている感覚だとも思う。

そう考えると、無宗教っていうより大前提に神道が根付いているってことなのかもな。

ただ、神道ってさ。
教義もなければ指導者がいるわけでもない不思議な宗教なんだよな。

なので、教えとしては道徳の授業ってのが教義の役割を担っているのかなって思ったりする。

今回は道徳って教科について考えてみる回だ。

ちっと教育について考えてみようぜ。


正しいこと

まずあんたに聞いてみたい。
あんたは正しく生きているか?

なんとなくだけれど「アイアムジャスティス!」って言い切れるヒトってレアなんじゃないかなって想像するんだよな。

なぜか。
だって、「正しい」の定義なんて学校で教わってないもんよ。

いや、「悪い」の定義は嫌ってほど教えられていると思う。
ケンカすんな。
盗むな。
命を奪うな。
静かにしろ。
「悪い」の教育はべからず集の丸暗記だよな。

そして、唯一「正しい」を教える教科として存在している道徳。

俺がガキンチョのころはおまけみたいな教科だったと思うんだけれど、最近では道徳に成績がつけられるみたいだな。
ホント出来るの?そんなん。

道徳教育の実際

で、妻が教育に関わっているんで実際のところ道徳ってどうやってんの?って聞いてみたんだよ。

そしたら、俺のイメージ通りに具体的な状況を設定して、その状況を「どう思うか」を考えさせるってのがメインらしいんだよな。

例えばこんな感じ。
外国の家族が小さな子どもと一緒にバスに乗って来ました。
バスはものすごい混んでいます。
小さな子どもはぐずりはじめてしまいます。
外国の家族は聞いたことのない言葉で子どもを一生懸命あやしています。
あなたはどう感じますか?

みたいな。
要するに「正しい」回答なんて存在しないんだよね。
ぐずっている子どもをあやすって回答でもいいだろうし、席を譲ってあげるでも良いだろう。
なんなら、完全にそのことを無視して迷惑を受けてないって態度を示すのだって良いかもしれない。

その上で「なにかを考えた」って記録を残すことで成績を出していく。
そんなことが教育現場に求められているわけだ。

そんな正解の無い正しさってのが求められている現実があってだよ。
当然教師の立場でも迷いが生じるわけだ。

迷いっていうより揺らぎって言った方が良いかな。
さっきの外国の家族のケースで言っても「優しくしよう」が正解でも「そっとしておこう」が正解でも違和感はない。
どれも正解じゃないし間違いでもない。

そんな状況で「成績」をつけないといけないわけだ。
しかもその成績に対して説明を求められることもあるんだろう。

そんなの、説明デキッコナイスじゃんか。

例えば「そっとしておく」という表現をした生徒と「無視をする」という表現をした生徒で「そっとしておく」の表現をよい成績にした教師がいたとする。

結果としての行動にこの二つは差がないわけじゃんか。
でもなんとなく「そっとしておく」の方が良いとする感覚は俺たちにあるじゃんか。

で、思うわけよ。
あれ?道徳という教科で何が正解か分からない上で、子どもたちは何かを受け取っている。

それが今の日本の「正しい」の源泉なのか?ってさ。

つまり、俺たちは「お天道様が見ている」という感覚を感覚で伝えながら今の日本の「正しさ」を作り上げているってことだ。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちはこの「正しさ」を今まで通り伝えていくことが出来ると思うかい?

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