求める人生と求められる人生
あんたも「あんたに求められていること」ってやつを意識することがあるかい?
現実問題として、俺たちはヒトが作り上げた社会の中で生きている。
それ故に、俺たち全員にとって、「誰か」って存在は無視することができないものだよな。
自分のやっていることが誰かの役に立っているのかどうかなんて、自分だけで判断できるものでもないし、自分ひとりでの判断ってのは事実を歪ませてしまうってのはあると思うんだ。
ところがその「誰か」の視点ってのを自分の中心に据えてしまうと、途端に別の歪みが出てくる。
「そもそも、お前は何者なんだ?」って言う誰でも一度は引っかかるあの問に伴う歪みだ。
今回は他人の視線と自分の視線ってやつについて考えてみる回だ。
ちっと俺たち自身を追い詰める話かもしれないけれど、付き合ってくれよな。
幼少期に他人の目を意識すること
今回、このテーマについて考える切っ掛けをくれたnoteがある。
そらさんは、なんと言うんだ?すごいセンシティブな文章を書く印象がある御仁だ。
このnoteで紡ぎ出された文章も読んでみてもらえればあんたにも感じてもらえると思うんだけれど、実に俺たちが「あえて言葉にしなかったところ」を言葉にしている印象を受ける。
俺の文章のような、斜め下から現実をねめあげて、その現実に向かって理屈というはしごを掛けるような感じじゃない。
シンプルに「ああ、僕らはそうだよね」という感覚だけがそこにある。
あがきも苦しみもそこにはない。
ただあるようにあるという文章がそこに紡ぎ出されているんだ。
その「そこに存在する」ことに意味のある文章でそらさんがこのnoteで描いているもの。
それが「求められること」って状態だと思うんだ。
求められることが何かってことを言葉にして考えられた子ども。
それは言語という鎖に感性を縛り付けられてしまった子どもとして俺には感じられたんだ。
感性を縛り付けられた大人
そして、この縛り付けられた子どもの姿は、同時に一つのことを表現しているように感じられる。
つまりは俺たち大人を縛り付ける何かだ。
実態として、俺たちは実に多くの事柄を制約事項として認識している。
子どもの教育しかり、給与が上がらない中での生活しかり、誰かとのコミュニケーションを円滑にすすめるための条件しかりだ。
そのいずれもが「求められていること」に関連しているってのは事実だと思うんだよね。
俺たちは誰かに何かを求められた瞬間に、その求めに応えるために自らを縛り上げていく。
本質的に俺たちは自分の好き勝手にすると、自分の大切なヒトを守れないって感じているってことなのかもな。
子どもたちに歩んでほしい人生
その自らを縛っていかないと生きていけないってのが事実だとして、俺たちは子どもたちに自らを縛り上げる人生ってのを歩ませたいって思っているんだろうか?
こいつは実にヘビーな課題だ。
だって、自分を何らかの形で律していくことは、生きていく上で絶対に不可欠な要素だとは思うんだよ。
ただ、同時にその律するという縛りを自らに課すことは自分が実現できる事柄を成約するって側面もあるし、なにより楽しくない。
俺たちは「生きる」と言う至極根源的な目的のために、子どもたちに「夢を諦めろ」と言うことができるのかって話だ。
そんなん極論だろって?
そら、そうなんだけれども、現実として誰しもが何らかの天才として振る舞うことができない以上は、どこかで妥協ってのが求められる。
そして、子どもたちはどこで妥協して良いのかなんてことは経験を積まない限りは判断できない。
かと言って、大人がその判断をするってのはどうにも違う気がする。
あくまで子どもたちの人生は子どもたちが選び取ってかないとダメな気がするじゃんか。
ぶっちゃけて言えば、俺自身はある意味で夢を諦めた大人ってことなんだと思う。
ってか、夢を持ったことすら曖昧な記憶になるくらいに現実に翻弄されている。
そんな大人はついこう言いたくなる。
「夢みたいなこと言ってるんじゃないよ」ってね。
でもそれって絶対言っちゃダメなやつじゃん。
まだ、夢という希望が手に取れるように感じることができている子どもたちに「それはつかめないよ」って言うのは大人として間違ってるとおもうじゃん。
なあ、あんたはどう思う?
子どもたちが夢を掴むために「何を捨てるのか」をどうやれば大人は一緒に考えることが出来るんだろうか?
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