noteで発信することで与えてもらえるもの
あんたにとって、noteを書くってのはどんな意味を持っているんだろうね?
実に様々なヒトが様々な意見だったり話だったりをnoteに書き連ねている。
多くは無料で提供されていて、「おいおい、こんなオモロイこと無料でいいのかよ」って思うこともしばしばだ。
実際、俺のnoteも大部分は無料で公開していて、それ故に読んでもらえているって部分はあるんだと思う。
でも、ある程度の時間を割いて、noteを書き続けるのってみんなにとってどんな意味を持っているんだろう?
今回はnoteで書くという行為について考えてみる回だ。
まあ、改めてこの苦しくも楽しい行為について考えてみようぜ。
書くことによって得られるもの
まずは、俺たちがnoteで書くことで俺たち自身が何を得ているのかってのを整理することろからだよな。
俺の場合は、このnoteを書くというのが習慣になってから、世の中で起きていることだったり作品が表現しているものの「意味」ってのを考える癖ができたと思うんだよね。
それまでは「かったるいなぁ」とか「めんどくせえなぁ」とか言うネガティブな感情も「オモロイなあ」とか「ビリビリくるね」とか言うポジティブな感情も言語化されることなく、ただ感覚のママ、誰とも共有されることなく俺の中にだけ存在している状態だった。
で、noteを書いている時に、はじめてこの感覚ってのを言語化する「必要性」に迫られる。
なんつっても文字で表現している以上は言語化ってのは避けて通れないもんな。
言語化によって得たもの
感情を言語化してふと新たな感覚が芽生える。
「おおう!?俺ってばこんな風に考えてたのか」ってね。
俺の場合、もともとが理屈っぽい方だと思うんだけれども、言語化しないママでおいておいた感情ってのも普通にある。
そう言う感覚って維持されないで過ぎ去っていくんだよな。
ところが一度言語化って作業を経ると、自分の独りよがりな理屈を自分で客観的に眺める事ができる瞬間がある気がするんだ。
自分で自分の理屈を言語化したあとに眺めてみると「エゴだよそれは!」とアムロバリにつぶやいちまったりすることもしばしばだ。
#逆襲のガンオタ
反応をもらう嬉しさ
あとは、これは発信をしているヒトは誰でもそうだと思うけれど、反応をもらえたりするとたまらなく嬉しい。
ぶっちゃけ、この反応という報酬をもらうために続けているってのもあながち違うとも言えないと思う。
でね。
思うのがこのnoteでの反応って批判的な反応ってあんまり返ってこない。
もちろん、俺ごときにネガティブな反応をすることで命をムダ使いするなんてもったいないって思うヒトは多いと思うけれど、俺自身の意見って多分世の中一般的に見たら偏りが結構ある方だと思うんだよ。
それでもその偏りに対して脊髄反射的な反応を受けたって経験はしたことがない。
極まれに「その意見とは違う意見を持っている」って反応を返してもらうことはあるけど、絶対にその意見って脊髄反射的なものじゃなくて、キッチリと自分の意見ってものを言語化した上で反応してもらえていると思うんだ。
まあ反応の母数が殿上人のヒトたちとは比べ物にならないからだろって言われたら、そらそうなんだけどさ。
言いたいのは自分の意見と同調する意見もそうじゃない意見も同じ様に俺には喜びを与えてくれるってことだ。
あんたもそうだろう?
読んでくれるヒトを束ねる価値
2022年の始めにこのnoteのサークル機能とかを活用して俺のnoteを読んでくれるヒト同士で交流できる状況を作ってみたらどうだろうって考えてみたんだ。
ただなあ。
そこに相乗効果ってどうやったら作り込めるんだろう?
基本的に俺のnoteはオモロイと感じたことを言語化するって作業の連続だった。
もしかしたら、別のヒトのオモロイとやり取りする環境を作ることができれば、もっとオモロイかとも思ったんだよね。
でも考えても考えてもそう言う「オモロイを共有する場の作り方」ってのが思いつかない。
つくづくイベンターに向かないなあ。
なのでしばらくは今まで通り俺のオモロイを書き続けてみようと思うんだよ。
なあ、あんたはどう思う?
俺たちの発信が結びつき、他の誰かのオモロイを刺激できる何かってなんだろうな?
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