虚構の上になり立つ経済
信用ってやつは、俺たちが子供の頃に比べると、目に見えて力を増し続けている。
そんなふうにあんたは思ったりしないかい?
俺たちが子供の頃、100円玉握りしめて近所の駄菓子屋に行ったもんだ。5円チョコとか今となってはどういう利益構造の商品なんだって思うような駄菓子がズラッと並んでいた。
俺のお気に入りは10円のふ菓子。値段の割には体積が大きい。子供の頃の俺たちにとっては体積は正義そのものだった。
100円が生み出すファンタジー。あの頃はそのファンタジーは限りない夢を与えてくれていたように思う。
時はたって、現代。
いまや仮想通貨なんて意味のわからないものが跋扈している。
今回は、俺たちが使っているお金とそのお金に力を与えているものについて考えてみる回だ。
俺たちは、何を持ってお金を信用しているのかって事を考えるんだ。つきあってくれよな。
お金の成り立ち
そもそも俺たちはお金ってやつをどうやって手に入れてきたのか。
まずはWikipedia先生に貨幣について聞いてみよう。
貨幣の起源は、市場や貿易の起源とは別個にあるとされる。貨幣の機能には、(1)支払い、(2)価値の尺度、(3)蓄蔵、(4)交換手段があり、いずれか1つに使われていれば貨幣と見なせる。
貨幣の4つの機能は、それぞれ異なる起源を持つ。
(1)支払いの貨幣は、責務の決済を起源とする。賠償、貢物、贈物、宗教的犠牲、納税などがこれにあたる。
(2)価値尺度の貨幣は、物々交換や財政の管理を起源とする。歴史的には単位のみで物理的に存在しない貨幣もある。
(3)蓄蔵の貨幣は、財や権力の蓄積を起源とする。食料や家畜、身分を表す財宝などがこれにあたる。
(4)交換の貨幣は、財を入手するための交換を起源とする。売買がこれにあたる。4つの機能をすべて備えた貨幣が使われるようになるのは、文字を持つ社会が発生して以降となる。
出展:Wikipedia
なるほど。ポイントは支払い、価値の尺度、蓄蔵、交換手段のすべての要件を満たした貨幣は文字文化に伴って具現化したってところだな。
つまり、俺たちはお金って神話に実行力を持たせるためには文字文化が必要だったってことになる。
お金そのものは、自然界にあるものじゃない。
俺たちは「お金には価値がある」という虚構を作り上げて、その虚構を「みんなが信じている」という状態を信じることで、今の経済を回している。
その虚構を信じるために文字は不可欠だったんだろう。
その有りもしない価値を築き上げるために、人は自分の属している自治体だったり国だったりを信じてきた。
最初は、物々交換から始まった経済だけれども、その不便さから物品貨幣が生まれ、その供給の不便さから貨幣が生まれた。
貨幣は紙幣へと変貌し、今や仮想通貨なんてこの世の中に全く実体を持たない通貨も出てきている。
仮想通貨といえば、こんなニュースも流れている。
天下のFacebookが仮想通貨を出すってニュースだ。
Facebookはあんたも知っての通り、世界で一等賞のSNSだな。
その一等賞のFacebookがその信用を使って仮想通貨を作り出そうって話だ。
信用と経済
Facebookが仮想通貨を作り出すってことのインパクトは計り知れない。
なんつっても、一等賞のSNSだ。積み上げられた信用はあっという間に俺たちの中での価値の神話に直結してしまう。
仮想通貨って経済が成立するのは、信用経済の行きつく次の世界なのだと思う。
俺たちは人を信用して経済を回してきたんだけれども、もはや人ではなくアルゴリズム、ひいてはその先にある「世界中の人々」なる何かを信用して経済を回していく世界観だ。
ヒトは、神を信じて世界を構築してきた。
神という存在は宗教という形を借りて、「人々が同じ価値観で行動できる」という虚構の現実を俺たちに与えてくれた。
事実、十字軍でも一向宗の一揆でも、宗教は俺たちヒトに多くの行動を起こさせている。
そして、ヒトは信じるものを神からヒトの集合体へと変化させてきている。
俺たちは、ブロックチェーンという仕組みを介して、俺たち自身を担保にした巨大な経済を手に入れようとしている。
担保に入れられている俺たちヒト自身。
それは、俺たちが肥大化し続けるというなんとも破滅的、かつ魅惑的な虚構の上に成り立っている。
俺たちは俺たちが生きているってことさえ、担保に入れて経済を発展させようとしているんだ。
なあ、あんたはどう思う?
この俺たちの理解を軽く凌駕している世界観は俺たちを救ってくれるんだろうか?
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