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ありたい自分をすり合わせる

あんたはコミュニケーションってやつについてどんな事を考えたことがあるかね?

SNS全盛の今という時代において、コミュニケーションってやつが持っている意味ってのは今までの比較じゃなくくらいでっかくなっているよな。

コミュニケーションをどう取るかによってそのヒトの価値が決められちゃう様なところがある。

でもさ、本来コミュニケーションってのはなにかの目的に沿ってやるもんじゃなくて、そのコミュニケーションそのものが目的みたいなところがあるじゃんか?

今回は俺自身が望んでいるコミュニケーションってのが何なのかってのを考えてみる回だ。

まあ、オッサンの内省の姿を楽しんでくれよな。

家族とのコミュニケーション

コイツは多分、子どもの頃からのクセみたいなもんだと思うんだけれども、どうやら俺は家族には「完璧であって欲しい」って思う傾向にあるらしい。

俺を育ててくれた親に対しては俺を指導するんだから、きっちり完璧でいてくれよっていうなんともめんどくさい子どもだったわけだ。

で、その傾向は妻や息子にも当てはめられてしまっている。

ちょっとした会話ごとに「おまえ、少し考えればわかんだろ!」的な態度をとってしまうことが多々ある。

これ、多分ダメなやつだ。
いや、絶対ダメなやつだ。

多分、俺の中で妻や息子は自分の延長線上にあるんだよな。
だから、自分を責めるのと同じ様に妻や息子を責め立ててしまう。

その結果として、妻や息子は俺との会話を恐れてしまい、俺は家族の中で孤立していくってスンポーだ。
何だそのディストピア。

好きなヒトに立派であって欲しいって願望

この自分が好きなヒトが立派であって欲しいって願望ってどっから来ているんだろう?

結局の所は自分の「好き」ってもんに裏打ちが欲しいっていう極めてエゴな感覚なんだよな。

俺が好きなんだからそれは立派であたりまえだろ?って感覚。
そして、その立派さを第三者に説明したいって願望。
そのために、その説明の障壁になるような好きなヒトの行動を許せない。

まあ、自分勝手の極みだわな。

なんで俺はその自分勝手さってのを自分に許しているのか?
だって、自分勝手だって分かっているのに、それをやめられないのはバカみたいじゃんか?

じゃあ、逆に考えてみよう。

自分が好きなヒトが自分が思う最悪な事をしているとしたら、あんたはどう思う?
それを全力で止めに行くんじゃないか?

そら、止めるだろってあんたは思うかもしれない。
でも、それが自分勝手な思にしか過ぎないって事を俺たちはどうやったら自分に納得させることが出来るんだろう?

コミュニケーション相手にとっての立派なこと

多分、一生懸命考えておかなければいけないのは「相手の価値観」ってことなんだろう。

自分の思う立派なこと。
相手の思う立派なこと。
自分の思うやりたいこと。
相手の思うやりたいこと。

その全てが違うはずなんだ。

相手の思うやりたいことと自分の思う立派なことが違うとき、俺たちはそれを受け入れる手段を求められる。

相手のやりたいことが、自分の思う立派なことじゃないとき、俺たちは相手のやりたいことを認めるための理屈を自分の中に構築する必要がある。

何しろ、自分のなかでは立派なことじゃないなのだから、その理由が腹落ちしていないと、反射的に相手の人格を否定してしまうのがヒトって生き物だからな。

ところがだ。
この相手のやりたいことを肯定する理屈ってのは必ずしも成立しない。

なぜかって?
だって「やりたい」には本来大義名分なんて存在しないからな。

純粋なそのヒト個人が持っている思いなわけだから、本質的に理屈は伴っていない。
理屈が無い以上は他者がその動機を理解することは困難を極める。

あんたも自分が好きなものについてなんで好きなのかって説明をするのはめちゃくちゃ難しいだろ?

つまり、俺たちは自分の「こうありたい」って理由を誰かに説明するってのが難しいのが普通ってわけだ。

それでも俺たちはわかり合いたいという欲求に苛まれている。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちはわかり合えない前提でわかり合うためのコミュニケーションを続けることが出来るんだろうか?

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