日本に一神教が根付かなかった理由
あんたも年末に向けて、てんやわんやの日々を過ごしているかい?
俺のところもご多分に漏れず、プロジェクトの進行に合わせてゴタゴタとし始めているところだ。
とは言え、やるべきことやって、言うべきこと言うっていう方針そのものは変わりないので、愚直にやってこうとは思うんだけれどね。
で、年末ってキーワードに思いを馳せた時に、日本人にとっての宗教行事が結構詰まっているよな。
クリスマスに初詣。まあ、クリスマスは多くの日本人にとって宗教行事かっていうと、たしかに騒ぎたいだけなんじゃないかとは思うけれどね。
でも、初詣は少なからず宗教色が強いような気がしている。
今回は、この日本人の宗教観について改めて考えてみる回だ。
そんな難しいところまでは行かないとは思うから、つきあってくれよな。
初詣という宗教儀式
さっきも書いたように、クリスマスは日本人にとっての宗教色ってすごく希薄だと思う。
多くの日本人にとって、キリスト教って概念は「キリストって神様がいるんでしょ?」くらいのゆるい認識だと思うしな。
いや、三位一体とか考えれば間違いではないのかもしれないけれど。
そもそもキリスト教はユダヤ教が変化したものだとか、イエス・キリストは生涯キリスト教徒ではなくユダヤ教徒だったとか、この辺の話は当たり前だけれども、一筋縄では行かない。
そんな背景なんてどうでもよくて、俺たち日本人はイルミネーションを楽しんだり、恋人たちの時を過ごすためのイベントとしてクリスマスを認識しているよな。
それに対して、初詣ってのはちょっと違う意味が俺たちの中にあるように思えるんだよな。
確かに家族で初詣ってのは、イベント色はある程度ある。
でも、「なんで初詣に行くの?」って問われたら、あんたはなんて答える?
「1年のはじめのご挨拶」って答えるやつって結構いるんじゃなかろうか?
その挨拶する相手が土地神様だったり、実家の両親だったりいろいろだけれども、この日本に脈々とつないでいった祖先たちに思いを馳せることも多いんだと感じているんだよね。
この祖先たちに思いを馳せること。
土地の歴史に思いを馳せること。
その感覚が神道というアニミズムとあいまって、俺たち日本人の宗教観を形作っているように思うんだよね。
日本は数少ない一神教が根付かなかった先進国
八百万の神という感覚。つまりアニミズムってのは、俺たち日本人に深く根付いている宗教観だと思う。
トイレの神様なんて歌が流行るくらいだからな。
この誰に教えられたわけでもないのに、ありとあらゆるものに神性を感じるって土壌は、比較的多くの宗教を柔軟に取り入れていた。
キリスト教だって、八百万の神の一つの神様なんでしょ?ってくらいだからな。
そして、八百万の神は必ずしも人間の味方ではない。
時に荒ぶる神は天災をもって、人々の生活を蹂躙していった。
台風、洪水、地震。
今だってその驚異は俺たちの生活を脅かし続けている。
特に今年は台風15号、19号と立て続けに来ることで、自然の驚異ってやつをまざまざと感じる年だったと思う。
それでも、その天災をもたらす八百万の神に対する畏敬の念ってやつには代わりはない。
台風に恨み言を言ってもなんにもならないって感覚と、八百万の神に反抗してもなんにもならないって感覚はほとんど同じものだよな。
対して、キリスト教を始めとする多くの宗教は戒律をもって人間と「約束」をする。
その「約束」に基づいて、神はヒトに報いる。
そんな契約関係のようなものが一神教にはあると思うんだよね。
この「神がヒトに報いる」って感覚が日本には根付かなかった理由なのかもしれない。
日本は、世界でも有数の地震の多い地域だ。火山もそれなりにある。
日本の歴史は天災に彩られている。
常に神々は畏れの対象だったってわけだ。
その畏れの対象の神がヒトに報いる。
その感覚が現実の天災とギャップを感じさせる。
それが日本に一神教が根付かなかった理由かもしれないと思ったんだよね。
なあ、あんたはどう思う?
俺たちのこのアニミズムという宗教観はインターネット時代の今でも息づいていると思うかい?
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