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私とあなたと3.11

「3月11日に地震がおき、電気や水が止まり……」
これは、私が幾度と聞いた部活の部長のセリフ。

10年ってちょっと節目の気がする、あれから何度か振り返る機会はあったけど、これからは振り返る以外のこともしたいな〜と思うので、振り返りをまとめて、セーブポイントみたいにして前に進みたい。

私が育ったのは岩手県の盛岡市というところで、「内陸」と呼ばれて海から離れたところにある。
生まれたのは、盛岡市から車で2時間程の(今なら復興支援道路が整備されたので1時間30分程で着く)宮古市の病院。
宮古市内からさらに車で30分程の母の実家、田老町(今は宮古市と合併したので宮古市田老)には祖母が住んでおり、小さい頃から夏休みにも冬休みにも足を運び、娯楽が少ない田舎で遊びまわった。

田老町は、昔から津波の被害に遭っていた地域で、昭和8年3月3日の三陸大津波では559戸中500戸が流失して、死亡・行方不明者は人口の32%、2773人中911人。
田老町では3月3日はひな祭りではなく、避難訓練の日だった。

明治にも津波の被害を受け人口の83%にあたる1867人が亡くなった田老は、津波で残ったのは「田んぼと老人だけだった」というのが地名の由来だと地元の人が言っていた。
当時世界一と称され、海外からも視察にくる大きな防波堤が二重に町を囲み、松林を抜けると海が見える。
海に近い防波堤には、女子美の学生による絵が描かれていて、その大きさと絵のテーマの統一感のなさと学生の個性とが幼い私には、ひどく恐ろしく感じて、よく分からない感情になった。
フジツボがびっしりの堤防の上から覗くそこの見えない緑の海も恐ろしければ、そびえ立つ防波堤の絵も怖かった。

2011年3月11日。
防波堤を超えて津波がやってきて、松林からさほど離れていないところにあった祖母の家は流されてしまった。
成人した私が、幼い頃怖いと思った防波堤の大きな絵を確認する日は二度と来なかったのだ。


2010年10月。高校一年生の全国大会は西宮だった。神戸を観光して、阪神・淡路大震災を経て現在の綺麗な街並みがあると知った。
阪神・淡路大震災は私が0歳の時の出来事で、15年経てばここまで復興するのだなぁと思った。

2011年1月。部活の顧問の先生の同級生が釜石にいるからと、部活動の一環で釜石市に行った。
釜石の教会で釜石高校の生徒さんと交流をした。釜石の教会のステンドグラスには、海藻がモチーフとして取り入れられていて、面白いなぁと思った。

2011年3月11日。10年前の私は高校一年生だった。
三年生が卒業をして、次の春からは先輩になる。
3月に大会があって、地震発生時は学校で大会に向けての練習をしていた。

地震が起きて停電になって、家に帰るのも一苦労。家の方向が同じ生徒達を学校の先生が渋滞の中、車に乗せて送り届けてくれた。
私を送ってくれた先生は中国語の先生だったようで、車のラジオからは地震や津波の被害を伝える中国語のニュースが流れていた。

急にやってきた非日常と、違う地域とのギャップがよくわからなかった。
海から車で2時間かかる場所に住んでいての被害は停電になったぐらい。沿岸に住む祖母も、高台の伯父の家に移っていたので無事だった。
〇〇に住んでいたので無事でした、と安否を伝えるインターネット上の言葉に、無事じゃない人も確かにいるのに、とよく分からないけれど妬ましいようや感情を抱いたりした。

4月1日、釜石に行った。
教会も3ヶ月前に歌ったホールも津波の被害に遭っていた。
釜石へ行くのだから何か持っていこうとおもっても何が必要なのか分からなかった。

4月1日は、体育館で歌った。ゴザが敷かれ、体育館のステージ前はゴミ箱が設置されている、生活感があふれる場所での演奏は後にも先にもそれきりだった。
こんな場所で歌って何になるんだろうか、とか誰も彼もが歓迎してくれるわけでもないのに、とか、不安ばかりあった。
でも小さい子が楽しそうにして演奏を聴いてくれて、意味ってあるのかもなぁと思った。

それから1週間しないうちにまた沿岸へ行って歌って、徐々に片付いて行く瓦礫と、綺麗な海を車窓から眺めた。

新学期、クラスメイトと久々の再会。クラス替えの無い学級だったので、久しぶりにクラスメイトと会ってほとんどの面々が変わらない中、クラスのムードメーカーの子が泣いていたのが印象に残っている。釜石の親戚のお姉さんが亡くなったと、その子が泣いたのを初めて見た。

部活動は忙しくなった。
今までは老人ホームや小中学校、イベントでの演奏が月に数回あるくらいだったのに、広い沿岸地域へ歌いに行くと1日3回以上ステージに立つことになる。

避難所で手を繋いで歌った高校生が、大会でも頑張っているって伝わったら、活躍を喜んでくれたりしないだろうか、と思って大会に向けても気合が入った。
福島で開かれる予定だった東北大会は、震災の影響でホールが使えなくなって岩手開催になった。
地元開催だと大会のスタッフとして手伝うので、全国大会出場を決めた学校の生徒として大会を手伝いたいな、と思ったりした。

全国大会は東京・府中。
全国大会に進めた学校はその分曲と向かい合う時間が長く、多くなる。
これ以上はないのだから、後はここまで来れたことを喜んで歌うだけ、という気持ちと、いい結果を残したい、金賞という分かりやすい結果で被災地の人に伝わって欲しい、とせめぎ合う気持ち。

2012年、高校三年生。沿岸での訪問演奏を見て、宮古の中学校から進学して入部してくれた後輩ができた。
全国大会以降は受験やらセンター試験の勉強やら制作やらで部活は出席しなくなる。一緒にいた時間は短かったけれど、いつもニコニコ笑っている彼女が、2013年3月11日のステージに立てなかったのを知って、いろんな人に深い深い震災の傷があるのだなと思った。


2011年3月11日から10年。
釜石のホールは新しく建設されたし、浄土ヶ浜もとっても綺麗で海の幸も美味しい。

田老に住んでいた祖母は亡くなって、私が田老に行くのは年に一回夏の墓掃除の時だけになってしまった。
沿岸は、お店が出来たり家が建ったり道路が整備されたり、10年で色々変わったけれど、田老は未だ寂しいまま。

でもまあ、5年後、10年後はどうなるのかなぁと、もう少し寂しい田老を見守っていきたいなぁと思うのです。

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