見える光景と、ある風景と

好きな場所も、苦手な場所も、気分次第で光景は変わる。

だけれど、その風景はきっと特に変わっていない。


あるとき、急にふさぎ込みがちな気分になる。

私には、自宅が苦手な場所の1つ。

気分が良い時は、家事をしたり、ネットで動画を観たり、寝たり出来る場所。

気分が今一つのときは、自分が立てる物音1つにも気を付けている。マスキング代わりにTVから音を流して耳栓をするか、ヘッドホンをつけて音楽を聴くかしていて、居るに居られない場所。

それでも、その風景を作っている要素、それがそこにあることはほとんど変わっていない。

建物も、人も、自宅の物も、普通にある。

変わっているのは、自分の気分の方なのだ。

『居るに居られない』と書いた場所で、寝たり、家事をしたりすることが出来ている。

本当に苦手な場所であって、それが間違いないのなら、その違いはまず起こらないだろう。

今日もその風景は変わりがなくて、光景は様変わりする。

私は気分を変えて、生活を送る為に自宅に戻る。

その光景は少し違っているだろうと思う。

私の存在は、風景にとって要も不要もない。どちらにしても構わないことなのだ。

残るのは、気分の違いのある私だけだ。

自分は気分次第でその風景に残ろうとする。

だから私はそこにある。


私に映る光景がある。

自分は同じ風景を見ている。

誰かを連れてきて、その風景を見る。

誰かに映る光景は、私とは違っている。

誰かと好きな光景、苦手な光景が完全に重なることはない。

私たちは同じではないからだ。

それでも、似ている部分があるかもしれない。

そこが人に重ねることが可能な部分になる。

良くも悪くも、私たちは1人だ。

人の部分への好きも、苦手もある。

私の気分はその影響に揺さぶられることがある。

私は居ても、居なくても良い気分になることがある。

また、私が人にそれを与えることがある。

その人がいる風景がある。

その人に映る光景は、まだわからない。

自分がその人に重なる部分を探すことは可能だ。

重なる部分が増えたときに、映っていた光景は変わる。

風景は違って見える。

私と人との風景には変わりない。

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