たまには気の向くままに文章を書いてみる。

私には好きな場所がある。


そこは現在、人気(ひとけ)が殆どない公園だ。

そこはいわゆる転勤族の子どもだった私が、引っ越し続きの最中に立ち寄った地域の1つだった。

昔、そこでは定時に地区のソフトボールの練習をしていた。近所の店で駄菓子を買った友人たちと集まって、練習はそこそこにして遊んでいた。


数年後、私は同じ県の、別の地域に引っ越していった。

問題だらけの中で高校生になり、地域が関係ない学生として、私はこの地区の友人たちと再会して、進学し、社会人としてまた別れていった。


現在、皆は就職などでそれぞれの地域で生活しているのだろうと思う。

学生の終わりかけになってから、私は障がいの認定を受け、地元に残った。

思う、と書いたのは、定形発達の一般人としてそのまま進んだはずの皆と別れて、私が発達障がいを持つ障がい者として、馴染みづらくも働くようになったからでもある。

今では極たまに一部の人と会って、皆の様子を知る程度だ。


私が自力と第三者の助力での暮らしを始めてから、まだ10年にも満たない。

その間に家庭の混沌を抜けて、大きな災害を通過して、先に健康を失って別れた友人たちもいた。


現在、私は1人を満喫している。生来のネガティヴな気持ちに沈むことも多い。

社会人としての暮らしをしていると、年齢的にも物珍しがられる暮らし方をしているようだ。誤解を恐れず書くけれど、近い年齢の、性差の悩みがわかる気もする。

『訳アリ』なのではとか、いわゆる『地雷』なのではとか。失礼な、とは思うけれど、残念にもそれは止められない。

自分の気持ちに加えて、そういった好奇や意地悪さ、不気味がる視線や声に疲れて、気がつくと私は昔いた、この公園に来るようになっていた。


今では、子ども達の地区の集まりは殆ど行われていないらしい。


すっかり人気の無くなったここに、今も私はいる。

ここにいると、気持ちの疲労が抜けていく。

リフレッシュを繰り返しながら、また日常の生活のある喧騒に戻り続けていく。


出来ることなら、ずっとこういう所に居たいとよく思う。ぼーっとしていたい。気が済むまで、ずっと。




だけれど、私たちの現実は資本主義で出来上がってしまっている。

実際、生活しているだけでお金がかかる。

既に資本のあるものに追いつこう、追い越そうとしても、簡単には覆せない。

TVを見る限り、恐らくそのカウンターとして、異次元で仮想通貨が発生したのだと考えられるけれど、現実を覆すには至らない。


収入の面で、私が障がい者として施設で働いて、定形発達の友人達に近いところまで行くことが現実とても難しいように、一朝一夕にも行かない。

私の場合、猥雑な砕けた話をしながら働く力や、健康的な生活をコツコツと積み重ねる壁の厚みにぶつかって、挫折を感じやすい。


一発逆転の可能性に気付くと直ぐに飛び付きたくなる気持ちを抑えながら、私は鬱蒼とした日常を続ける。いつか、ここを徐々に抜けて行くのだ、と思いながら。


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追記。

これまでにも私の記事を訪れて『スキ』を付けてくださった数々の方々へ。

アカウントで書いていることはほぼ私事ですが、いつも嬉しく思っています。

私自身、『スキ』を付けることはあります。

ただ、私から『スキ』をお返しする、ということへの期待がある場合は、その点の保証は出来かねますことをどうかご容赦ください。

リアクションは薄いかもしれませんが、少なくとも『スキ』をつけてくださった方のアカウントや記事は拝見しています。

これからもあなた様を含め、お互いに誰かの心のどこかに引っかかるようなものが、形になると良いなと願いながら。記事のこの場を借りて、お礼を申し上げます。

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