ファシズムの可能性とその歴史

私はファシストを自称している。

この「ファシズム」とは如何なる思想なのか。それは私でも完全には分かりきってはいない。
何故なら、「日本のファシズム」は未だ発見されていないからである。

否、「引き出されていない」からである。

そもそも「ファシズム」とはどういう意味で、どういう由来があり、どのように出現し今に至っているのか。

ファシズム(fascism)の語源は「束」を意味するラテン語の名詞ファスキス (fascis) の複数形「ファスケス」(fasces)である。

ファスケスとは古代ローマ帝国の執政官の従者が捧げ持った標章で、斧の周囲に十数本から数十本の棒を配し、皮の紐で束ねたものである。

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斧が「権力と求心力」、斧を包み込む棒が「周囲の団結する人々」を象徴している。

ローマの時代以降、力や正義、結束や団結、共和制などの象徴としてファスケスは受け継がれてきた。

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(フランスの非公式国章)

多民族の移民国家で連邦制・共和制を標榜するアメリカ合衆国は「ローマ帝国の後継者」を気取っている。(そのローマ帝国ほど高潔な思想は無く、軍事力と経済力を誇示しているだけだが。)

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(アメリカ上院の紋章)

そして、「ファスケス」から転じて束(たば)、集団、結束を意味する「ファッショ」(fascio)、複数形は複数形である「ファッシ」(fasci)というイタリア語の単語が生まれた。

この「ファッシ」とは「集い」「」の意味で用いられている。

1919年、元イタリア社会党幹部で第一次世界大戦に従軍したベニート・ムッソリーニは政府と共産主義者に不満を持つ退役軍人を中心にイタリア戦闘者ファッシ(Fasci italiani di combattimento)を組織する。

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(統帥ベニート・ムッソリーニ)

目的は「イタリアのファッシ(連帯、団結)」であった。 世界史の用語では「イタリア戦闘者ファッシ」と呼称されるが、意味的に言えば「イタリア戦闘者連帯」とでもしておいた方が分かりやすいと思う。

大戦後のイタリア社会党は国内情勢の不安定化に付け込み、ロシア革命の真似をして1919年から1920年にかけて後に「赤い2年間」と呼ばれるストライキや占拠や暴動を指揮した。
ムッソリーニ率いる戦闘者連帯は社会党の暴力に対し、暴力で対抗した。

そして「イタリア戦闘者連帯」の政治綱領として発表されたものが「ファシスト・マニフェスト」(ファシスト宣言)である。

政治的な要求

・地域を基盤とした普通選挙
・地域を基盤とした比例代表制選挙
・選挙権および被選挙権の女性参政権(当時は他の大半のヨーロッパ諸国では反対されていた)
・経済部門で新設する国民会議(National Council)を政府レベルの組織とする
・イタリアの上院の廃止(当時は富裕層により選挙される過程を経たが、実際には王により直接指名され、1種の王権議会とされていた。)
・労働者、産業、交通、公衆衛生、通信などの専門家による国民会議の形成。法的権限を持った専門家または職人により選ばれ、直接選挙によって内閣の権限を持つ一般委員会に選出される。(この概念はコーポラティズムのイデオロギーによるもので、部分的にはカトリックの社会宣言からも派生した。)

労働および社会的な要求

・全労働者への労働時間の1労働日8時間の規制の、国家の法としての即座の施行
・最低賃金
・産業委員会の職務への労働者代表の参加
・産業の実行者または公共の奉仕者として、労働組合への信頼を示す(技術的および士気の価値の向上のため)
・鉄道および交通部門の再編成
・無効な保険に関する法案の見直し
・退職年齢を65歳から55歳に引き下げ


軍事的な要求

・特別な防衛責任を持つ短期雇用の国家的な民兵の創設
・軍需会社の国営化
・平和的だが競争的な外交政策

財政的な要求

・資本に対する強力な累進課税(集約された富の「部分没収」を予想していた)
・多数の貧しい人への特権や国家への負担によって構築された、宗教的な信徒団の資産の没収と、全ての主教職の廃止
・全ての軍事的な供給の契約の見直し
・全ての軍事的な契約中の利益の85パーセントの没収

このように現代でも通用し、また現代ですら達成されていない先進的な綱領を「ファシスト」は掲げたのである。

彼ら「ファシスト」の思想・主張が「ファシズム」(結束主義・団結主義・連帯主義)となったのである。

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(ローマ進軍)

我々を掻き立てる衝動は一つ、我々を集結させる意思は一つ、我々を燃やす情熱は一つ。それは祖国の救済と発展に貢献する事である。
勝たねばならない、必ず勝つ!イタリア万歳!ファシズム万歳!
(ベニート・ムッソリーニ)

ファシストは僅か3年で革命に成功したのである。

ベニート・ムッソリーニは第二次世界大戦の枢軸国の独裁者のように思われているが、ムッソリーニほど民主的で自由を愛した指導者はいなかっただろう。

初期のムッソリーニ内閣は国家ファシスト党を含めた国民ブロック、および中道右派の自由党・人民党、中道左派の社会民主党の連立政権であった。ファシスト党出身の閣僚は首相・内相・外相を兼務するムッソリーニを除けば3名(財務大臣・法務大臣・フィウーメ総督)に留まった。重要役職を抑えつつも、多党制に配慮した組閣人事となった。
ムッソリーニは強固な挙国一致内閣を樹立する事を構想しており、むしろ連立政権に社会党が参加しなかった事を問題とすら考えていた。

また、「連立政権」と言えば、他政党の中の偉い人を引き抜くことが多いものだが、ムッソリーニは、「学者」や「専門家」など実務能力は高いが必ずしも党内の地位は決して高くはない人物ばかり大臣に引き抜いた。

ある国民党の若手国会議員が、ムッソリーニから「次官を引き受けてもらいたい」と頼まれた。
彼は当時34歳の若者で、当然一人じゃ決められないので、

「党内の者と相談いたしましてお返事させていただきたく……」

と答えると、ムッソリーニ曰く。

『私があなたに入閣を求めるわけは、あなたが"あなた"だからです。あなたの党派の為ではありません。』

結局、34歳で政務次官に任命されたこの若者は、のちにイタリア共和国大統領になった、ジョヴァンニ・グロンキであった。

1922年12月、王家・党・政府の意見調整の場として、ファシスト党の政治方針を策定する他、重要な外交議題やサヴォイア家の後継者(ピエモンテ公)の選出など、多様な問題について議論する権利を持つファシズム大評議会が設立された。

このようにムッソリーニは独断で物事を進めるような人物ではなかった。

ドイツの国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が政権獲得後に突撃隊を粛清したのとは対照的に、国家ファシスト党は民兵組織を排除しなかった。これはファシスト党が自身も含めた「兵士の政党」であるという背景に加えて、粛清や内部対立を嫌い大同団結を好むムッソリーニの政治信念による判断といえた。実際、ムッソリーニはヒトラーによる長いナイフの夜事件(方針で対立した突撃隊司令官エルンスト・レームらを粛清した事件)を聞いた際に妻との会話で「あの男は野蛮人だ。あの殺し方はなんだ」と旧友を冷酷に処断した事への嫌悪感を口にしていた。国民ブロック内で路線の違いが表面化しつつあったイタリア・ナショナリスト協会にも寛容な姿勢を見せ、1923年には国家ファシスト党に合流させる融和策を取った。

私は、ヒトラーについては福祉・労働政策や失地回復を行った外交手腕は評価しているが、SS(親衛隊)の恐怖支配や差別政策は評価していない。
ちなみに、ムッソリーニは「(黒人やユダヤ人の)彼らは、ローマ時代から同胞だった」 と寛容な態度を示した。

1923年、国家ファシスト党選出のアテルノ・ペスカーラ男爵ジャコモ・アチェルボ議員により既存の比例代表選挙を修正する選挙法改正案が提出された(アチェルボ法)。同法では今後の比例代表選挙では全体の25%以上の得票を集め、かつ第一党となった政党が全議席の3分の2を獲得し、残った議席を第2党以下に得票率に応じて分配するとする内容であった。小政党乱立による連立政治や野合を防ぎ、一党独裁制による政治権力の集中というファシズムの重要な目標を意図していた。

もっとも、ムッソリーニ自身は独裁権力を握るつもりはなかった。

1924年の総選挙でファシスト党は圧倒的多数を確保したが、ムッソリーニは圧勝の後も議会政治・多党制を維持する事を約束して選挙連合に参加した人民党、自由党、自由民主党と連立政権を組閣している。今や政権内の閣僚の殆どが国家ファシスト党出身で占められていたが、複数の人物が「ムッソリーニは社会党を含めた諸政党との挙国政権樹立を放棄していなかった」と証言している。

ムッソリーニ政権批判の急先鋒となっていたのが野党第一党の統一社会党を率いるジャコモ・マッテオッティ書記長が何者かによって暗殺される(ファシスト党員の突発的な犯行、マフィアによる犯行説がある。ムッソリーニの関与は証明されていない。)事件が起きるとムッソリーニ内閣に対する大規模な反政府運動が発生した。

左翼政党が中心となった反政府運動に中立的な他政党やファシスト党内の分派までが加わり、ファシスト党からの離党者も多数発生、ムッソリーニは窮地に追い込まれた。

しかし結果から言えば精神的指導者であるムッソリーニの権威が党内で決定的に揺らぐことはなく、党の崩壊や分裂には至らなかった。
反ファシスト運動も国王や軍の支持が得られなかった事から次第に勢いを失い、最終的にゼネストに踏み切るかどうかで共産党や社会党、人民党の対応が分かれて瓦解した。

内紛を制したムッソリーニは党内においては仲裁役、政府内においては既存の多党制を維持しながらの制度改革を考えていたそれまでの計画を不十分と感じ、根本的に国家制度を改革して一党制による独裁政治を行う事を決意した。
ムッソリーニは党の書記長職に就かなかったり、首相時代に連立政権という形を取るなど自身が独裁者になる事は望んでいなかったが、先述の内紛は全体主義を確立するまでの過渡期には独裁者が必要であることを示した。

「この演説から四十八時間以内に事情が明らかになる事を覚悟せよ。諸君、自分の心にあるのは個人の私利私欲でもなく、政権への欲求でもなく、下劣な俗情でもない。ただ限りなく、勢い強い、祖国への愛だけだ!」
ベニート・ムッソリーニ
1925年1月3日の独裁宣言演説

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(独裁者ムッソリーニ)

この独裁体制の確立後もファシストイタリアでは4、5年に一回「大選挙」という選挙が行われ国民の信を確認し、エチオピア併合やアルバニア併合など国家の重大な方針を決定する際には必ず国民投票が行われた。

前期のムッソリーニ政権は外交によってギリシャやユーゴスラビアから領土を獲得し、英仏と協調して(ストレーザ戦線)ドイツを封じ込め、オーストリアの独立を保障するなど欧州の平和維持に努めた。

この頃オーストリアのドルフースはオーストリア・ナチスに対抗する為に「オーストロファシズム」を採りイタリアの後援を得た。
ドルフースとムッソリーニは価値観の合う盟友でドルフースが墺ナチ党に暗殺された際、ムッソリーニは激怒してドイツと一触即発になりヒトラーが引き下がっている。

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(ドルフース(上)と墺ナチ党のイングヴァルト(下)) 

かのカトリックの総本山「バチカン市国」はムッソリーニ首相が教皇庁と締結した「ラテラノ条約」によって成立し、イタリア統一の際、教皇領を奪ったことで対立していたイタリア国家とカトリック教会の対立を和解に導くという偉業を成したのである。

しかし、後期のムッソリーニ政権はヒトラーと組み、国力を超えた戦争に突き進んでしまった。

これには、墺併合の際アクションを起こさなかった英仏への失望や、事前に根回ししたエチオピア侵攻を英仏から非難されたこと。英独海軍協定など英国の裏切りなどによってストレーザ戦線が崩壊した面もある。

(当初、ムッソリーニはドイツの勝利に懐疑的であったが、フランスが降伏寸前に追い込まれたことで焦りが生じたとされる。致命的な判断ミスであったが、この時点でドイツの敗北は予想しえないだろう。)

ネット上のデマでイタリア軍は弱かったとされるが、実際にイタリア軍はドイツ軍や日本皇軍など他の枢軸国と共に活躍した。
北アフリカやエチオピアではイギリス軍を苦戦させ、東部戦線ではソ連軍相手に戦線を維持していた。

しかし、圧倒的な物量に押し負け、遂にはイタリア本土を戦場にしてしまう。

ここに至って、ファシズム大評議会はムッソリーニの解任を決議、ムッソリーニは評議会の決定に従って統帥の地位を降りた。

また、評議会には統帥を解任する権限があったのである。この点もムッソリーニが「独裁者」ではないことを示しているだろう。

「素直に政権を下野した独裁者」はムッソリーニくらいしかいないのではないかと思う。

ムッソリーニは引退するつもりでいたが、グランサッソ襲撃後、ドイツに擁立され「イタリア社会共和国」の総統として連合国と継戦し、最後はパルチザンによって無残な処刑をされてしまった。

ちなみに、このイタリア社会共和国ではファシスト以外の様々な政治思想家が参加し一党制から多党制の復活が試みられていた。保守派との妥協で徹底出来なかったムッソリーニ本来の理想が探求されようとしていたのである。

ムッソリーニの死後も敵対した英国のチャーチルはその死を惜しんでいた。
辛口で知られたチャーチルはムッソリーニを「天才」と評し、「古代ローマの精神を具現化した立法者」とまで述べている。

インドのガンディーは「私心のない愛国者」と称賛し、他にも同時代の政治家や文化人にはムッソリーニの支持者が多く存在した。
まさにムッソリーニは20世紀最高の思想家であり革命家であり政治家であったと思う。

ムッソリーニはファシズムについて以下のように説明している。

「私はファシズムを捏造したのではない。イタリア人の深層から引き出しただけである。」

ファシズムには決まった形は存在せず、ドイツのナチスとイタリアのファシストの違いを見れば明らかなように国家・民族によって異なる。
また、ファシズムを「引き出した」人物によっても変わってくる。

例えば、同じナチスドイツでもアーリア人至上主義のヒトラーと対立し反西欧帝国主義に基づいてアジア・アフリカの植民地解放を主張したオットー・シュトラッサーら「ナチス左派」と呼ばれる人たちがいた。

ギリシャではメタクサスが同じように国内をまとめる為にファシズムを採用したが、英国との友好を重視してイタリアに対抗、イタリアの要求を拒否してアルバニアから攻めてきた伊軍を返り討ちにしている。 

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(ローマ式敬礼をするギリシャのメタクサス政権)

ファシズムに影響されて「新体制運動」が盛り上がった日本と同じ頃、中国では蒋介石がファシズムに傾倒し、国民党内に「藍衣社」というナチス風の精鋭団体を組織している。また、ドイツ・イタリアと友好関係もあった。

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私のファシズム論を説く前に、ムッソリーニとファシズムの歴史の説明で随分長くなったが、ムッソリーニという人物の深さを語りきることは出来ないので他の機会にする。

ファシズムには様々な可能性があるのだ。

そして、日本のファシズムは未だ引き出されていない。

戦前の日本にも中野正剛先生らの「東方会」、下位春吉先生らの「皇国青年党」、笹川良一先生らの「国粋大衆党」、高畠素之・赤松克麿・津久井龍雄先生らの「国家社会党」、橋本欣五郎大佐らの「大日本赤誠会」、北一輝先生が思想的指導者となり青年将校が中心となった「皇道派」、皇道派に対して永田鉄山少将や東條英機大将が中心の「統制派」が存在したが、少数存在したファシズム政党は政権を獲得できず、軍部の運動も明確にファシズムと呼べるものではなかった。

そもそも、ファシズムとは「下から」の国民運動であり、「上から」の体制運動ではないからだ。

故に「大政翼賛会」はファシズム風であってもファシズムではない。

そういう意味で、自民党・安倍政権ごときが「ファシスト」呼ばわりされることは勘違い甚だしいと憤りを覚えるものだ。

日本のファシズムは未だ引き出されていないからこそ、無限の可能性が存在している。

私たちは、日本のファシズムを引き出していきたい。

日本のファシズムであれば、天皇陛下を中心とした「和」の精神、「一君万民」「一視同仁」「八紘一宇」の精神は重要なものであると思う。

初期のムッソリーニが野党との協調を目指したように協調・調和が重要であり、それが実現されれば戦後世界で常識と化しているファシズムの「残虐」なイメージが払拭され復活を遂げることは間違いないだろう。

この記事は、過去のブログ記事を再構成したものです。

日本ファシズム(結束主義)の可能性~ファシズム史と日本

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