見出し画像

ブラック・フェミニストが読み解くR&Bの金字塔~『ディアンジェロ《ヴードゥー》がかけたグルーヴの呪文』より、「呪文は唱えられた」をためし読み公開

ディアンジェロのハーモニー、楽器演奏、アレンジは、アイコニックで時代を超越している――ビヨンセ
《Voodoo》は、ソウル・ミュージックという信仰を賛美するために私たちが集まった教会だ。これは福音であり……聖堂なのだ――ソランジュ
(本文より)

 2000年の発表以来、“R&Bの金字塔”として今日まで聴き継がれているアルバム《Voodoo》。寡作のシンガーソングライター、ディアンジェロによるこの世紀の名盤を一冊かけてじっくりと読み解く『ディアンジェロ《ヴードゥー》がかけたグルーヴの呪文』(フェイス・A・ペニック著)が本日発売になりました。

画像1

 このたびは、本書に収録の第一章「呪文は唱えられた」全文をためし読み公開いたします。
 翻訳を手がけたのは1995年のディアンジェロ来日をアテンドし、天才シンガーの知られざる素顔を間近で目にした押野素子さん(来日時のエピソードは、訳者あとがき「マイケル・アーチャーの呪文(スマイル)にかけられて」にくわしく書かれています)。
 日本語版はさらに、ライターの木津毅さんによる巻末解説 「『男らしさ』の呪縛を解き放った《Voodoo》の先見性」も収録。リリースから20年以上も経つ《Voodoo》をいま考察する意義や、同作の革新性を解説しています。ぜひご一読ください。

*  *  *

第一章 呪文は唱えられた

文=フェイス・A・ペニック 訳=押野素子

 voodoo(名詞)頻度は高くないがvodou とも表記:アフリカの多神教と先祖崇拝から派生した宗教。主にハイチで信仰されている――メリアム・ウェブスター辞典

 友人のミシェルが、私のためにカセットテープを作ってくれた。これまでにも、彼女は何度かカセットテープを作ってくれていて、大抵は私がまだ聴いていないアルバムだった。私たちは、ブルックリンのフォート・グリーンで近所に住んでいた。二〇〇〇年初頭のニューヨークにおける「ブラック・ボヘミアン」ライフの中心地だ。気軽に落ち合って、彼女が見つけた新しい音楽をもらっていた。ナップスターが誕生して数カ月が経っていたものの、一般に音楽をシェアする方法としては、いまだ「ミックステープ」の類が人気だった。

 ミシェルも私と同じく幅広いジャンルを聴いていたため、私は彼女の判断を信頼していた。コピーしてもらったアルバムは、彼女をはじめファンのあいだで前評判が高かった一枚だ。R&B界の次なる逸材発見と、多くの評論家やリスナーが賞賛した前作のデビュー・アルバムから五年。シンガー、ソングライター、プロデューサーで、複数の楽器も駆使するこのアーティストは、全身全霊をかけて“真の”ソウル・ミュージックを広く伝える大使となり、一九九〇年代にソウル・ミュージックから失われてしまったとされていた、ルーツの明確なサウンドを提示している。これが共通の評価だった。ディアンジェロの前作《Brown Sugar》は、ジェネレーションXの黒人たちの幼年時代を浮き彫りにするかのような音楽だった。両親がダンスし、ドライヴし、バーベキューし、愛を交わす時にかけていた音楽。マーヴィン・ゲイ、アル・グリーン、スライ・ストーン、スティーヴィー・ワンダー、カーティス・メイフィールド、スモーキー・ロビンソンを彷彿させた(なお、ロビンソンのカバー〈Cruisin'〉は、同アルバムからの人気シングルとなった)。アルバムのタイトル・トラックは、彼が愛するふたつのもの――美しい黒人女性と大好きなマリファナ――を強く求める官能的な楽曲だ。

 一九九〇年代は、ジャネット・ジャクソンやホイットニー・ヒューストンのようなスーパースターが、それぞれのルーツ(前者はR&B、後者はゴスペル)を超えて活躍していた。ジャネットの兄のマイケルは、十年前にスーパースターへの転身を成し遂げていた。一見は黒人女性と分からないものの、一聴すればその歌声は明らかに黒人女性だと分かったマライア・キャリーは、一点の曇りもない五オクターヴの声域で、「ドゥワップ」調のパワー・バラード〈Vision of Love〉を歌い上げると、ポップ・ミュージック界で大ブレイクを果たした。その他の女性シンガーや「ガール・グループ」も、一九九〇年のR&Bミュージックを席巻していた。メアリー・J・ブライジ、デボラ・コックス、SWV、ブランディ、TLC。そして、初々しいリード・シンガーのフォーメーションが原動力となったヒューストン出身の四人組、デスティニーズ・チャイルド。しかし、どの女性アーティストも、ダンサブルなグルーヴや、一緒に歌いたくなるようなラヴ・バラードという、絶対に失敗のない様式を守っていた。どれもがシャワーや車、カラオケ・バーにぴったりな音楽だ。

 一九八〇年代後半から一九九〇年代を通じて、数名の男性ソングライターやプロデューサーも、ブラック・ラジオでかかる音楽のスタンダードを決める上で、重要な役割を果たした。東海岸で台頭したのはテディ・ライリー(ガイ、レックスン・エフェクト、ボビー・ブラウンの〈My Prerogative〉)だ。彼はR&Bラジオに「ニュー・ジャック」サウンドをもたらした。ミネアポリスからは、ジミー・ジャムとテリー・ルイスが出現した。二人はジャネット・ジャクソンの音楽キャリアを再生させた立役者で、プリンスに次いでミネアポリスが誇る大物ミュージシャンでもあった。他にも、中西部出身のケネス“ベイビーフェイス”エドモンズとアントニオ“L.A.”リードは、所属していたザ・ディールの影から抜け出すと、R&Bヒット量産デュオとしての地位に就いた(ベイビーフェイスはまた、アダルト・コンテンポラリー・チャートで首位を獲得するバラード歌手としても、独自のニッチを確立した)。

 ロサンゼルスでは、大御所クインシー・ジョーンズが自身名義のコンピレーション・アルバムをはじめ、ジェイムズ・イングラム、パティ・オースティン、テヴィン・キャンベルの音楽を手がけた。また彼は、マイケル・ジャクソンのプロデュースで最もよく知られている。ロサンゼルスの北に位置するカリフォルニア州オークランドでは、トニ!トニ!トニ!が〈Feels Good〉、〈Anniversary〉、〈It Never Rains (in Southern California)〉といったラジオ受けする楽曲をヒットさせていた。なお、同グループのリード・シンガーで共同ソングライターのラファエル・サディークは、《Brown Sugar》でディアンジェロと〈Lady〉を共作。ディアンジェロのセカンド・アルバムにも大きな足跡を残すことになる。

 しかし、R&B界で、ジャンルを変化させ、破壊するような仕事をしていたのは誰だろうか? この問いの答えがプリンスであることは明らかだ。彼はマイケル・ジャクソンと同様、一九八〇年代に爆発的な人気を博した。アルバム《1999》と《Purple Rain》で、プリンスはスタジアムを満杯にする超大物アーティストへと飛躍した。シンガー、ソングライター、ミュージシャンとしての彼の力量は、ジャンルをも超越した。一九九七年には、ダラス出身のエリカ・バドゥが斬新な《Baduizm》でデビューを飾った。これは、一九七〇年代のアーシーなR&Bのヴァイブスにヒップホップの感性を組み合わせたアルバムで、静かな熱を帯びたバドゥのヴォーカルは、ビリー・ホリデイやダイナ・ワシントンを想起させた。自由で軽やかなイメージとマッチする滑らかなファルセットで歌うマックスウェルも、一九七〇年代半ばに人気を博した「クワイエット・ストーム」サウンドを現代にアップデートすることで、R&Bという音楽のあり方に挑戦し、成功を収めた。マックスウェルの個性的で美しいルックスと、チャーミングな存在感も、女性ファンを魅了した。彼とディアンジェロは、「女性に人気のネオソウル・アーティスト」として一括りにされることも多かった。

 一九八〇年代にラップとヒップホップの人気が高まったことで、一九九〇年代にデビューした多くのアーティストが影響を受けた。ヒップホップで育った一九九〇年代のミュージシャンは、ライムとサンプルを超えた新しい形態のヒップホップを作り出した。バドゥと同じように、ザ・ルーツ、デ・ラ・ソウル、ア・トライブ・コールド・クエスト、アレステッド・ディベロップメント、ディガブル・プラネッツ、フージーズといったグループは、R&B、ヒップホップ、ジャズを融合する遊び場を築き上げると、フッドの心意気を持つフッドの人々に訴求する音楽を作った。フージーズのメンバーだったローリン・ヒルは、マルチプラチナのセールスを記録し、複数のグラミー賞を獲得したソロ・アルバム《The Miseducation of Lauryn Hill》で、このフォーミュラをさらなる高みへと引き上げた。

 彼らをはじめ、同好のミュージシャンは、新世代のブラック・ミュージシャンを鼓舞する音風景を形成していた。貪欲なソウル・ファンは、刺激的ながらもそこまで才能に恵まれているとは言えないレコーディング・アーティストの作品を聴いて、自身の欲求に都合をつけていた。しかし、こうしたアーティストがどれほどファンから愛されていたとしても、一九九五年にリリースされた《Brown Sugar》に続くアルバムほど、大勢の人々が息をのんで待ち望んでいた作品はなかった。

 《Brown Sugar》は「現代のオールドスクール」とファンから受け入れられていたが、このニュー・アルバムときたら……あらゆる人々の渇きを癒す水になるだろう。ディアンジェロはある意味、自身と同輩たちが水流の中に滑り込ませていた音楽的要素をまとめ上げていた。《Voodoo》と題されたニュー・アルバムは、ジャンルの壁をぶち壊しただけでなく、良質ではあれ音楽的には単純だったファースト・アルバムを蒸発させてしまった。ディアンジェロは 、業界屈指のミュージシャンと仕事をして、プロダクションの質とソングライティングの技術をさらに高めた。当時のマネージャー、ドミニク・トレニアによれば、声をかけられたミュージシャンは「チャンプとスパーリングする」チャンスに飛びついたという。

 しかし、チャンプがリングに戻ると、奇妙なことが起こった……ヴィデオ。あのヴィデオ。ディアンジェロがおそらく一糸まとわぬ姿で、まっすぐカメラを見つめながら歌うミュージック・ヴィデオ。ワンテイクで撮影されたと思われるヴィデオ。彫刻のようなチョコレート色の肢体に玉のような汗を滴らせながら、「どんな気分?」と尋ねる彼の口。アルバムがリリースされる二カ月前に公開された〈Untitled (How Does It Feel)〉〔のヴィデオ〕は、特にアフリカン・アメリカン女性のあいだで文化的なセンセーションを巻き起こした。淫らなイメージと隠喩的な切望が津波のように押し寄せる「あのヴィデオ」(ブラック・ピープルのあいだではそう呼ばれるようになった)で、多くの女性は文字どおり言葉を失った。とはいえ、あのミュージック・ヴィデオは、強く人目を引くという意味では大ホームランを放ったが、宣伝しようとしていた楽曲の影を薄くしてしまったようだ。

 ディアンジェロにソウル・ミュージック界のスーパーマン役を期待するのは酷だったが、それでも当時の彼は、そのプレッシャーに動揺してはいなかった。しかし、「セックス・シンボル」というイメージは、彼にとっての弱点(クリプトナイト)となった。

 これについてはのちに詳述する。

 二〇〇〇年二月にミシェルからテープをもらった時には、アルバムのリリースから一カ月近くが経過していた。彼女からEメールで注意書きが届いた。《Voodoo》はあまり好きではない。前作ほどは良くない。彼女のコメントは、参考として心に留めておいた。あくまで個人的な意見だが、私は《Brown Sugar》が過大評価されていると思っていた。シングルは好きだった(特に気に入っていたのは〈Lady〉だ)。それでも、大勢の人々が贈っていた最上級の賛辞には同意できなかった。私には、《Brown Sugar》がマーヴィン・ゲイの模造アルバムに聞こえたのだ。彼の音楽的な才能を疑ってはいなかったが、本物を好きな時に聴けるというのに、なぜ模倣者を聴く? 《Voodoo》がリリースされた時、私は他の人たちのようには大きな期待を抱いてはいなかったため、先入観なくアルバムを聴いた。

 カセットをデッキに挿入して、「再生」を押す。アフリカのドラムとトライバルな詠唱が次第に音量を増し、私の小さなアパートを満たした。シンガーと熟練ミュージシャンの囁き声が忍び寄り、どんどん大きくなると、私は文字どおり驚いて動きを止めた。それは、アーティストとリスナーの喜ばしい新たな邂逅で、不意打ちで始まった音楽の祝宴だった。

 最初の数秒で、「わあ、何かが起こる!」と思った。アルバムは始まったばかりで、その「何か」さえはっきりと説明することはできなかった。ディアンジェロのヴォーカルが私のスピーカーを突き破った時、地震のように魂が振動するのを感じた。アルバムの一曲目〈Playa Playa〉の冒頭を飾るホーン・アレンジメントは、クラリオンだった。オールド・ソウルで装飾されてはいるものの、音楽、愛、セックス、苦悩、プライド、スピリットが新たな手法で語られている空間に、足を踏み入れてしまった。すぐさま私は、彼の音楽に合わせて激しく踊りはじめていた。悪魔の思う壺だ。蛇は古い皮を脱ぎ捨て、新しい体で這い出してきた。これが彼の執り行うヴードゥーなのだ。

 《Voodoo》は、ロック、ソウル、ゴスペル、ヒップホップ、ジャズ、アフリカとカリブの先住民音楽をごった煮にしたガンボだ。名声の落とし穴、愛の始まりと終わり、肉欲、子どもの誕生などが歌われている。私はアルバムを聴き終えると、数分のあいだ、まるで吸い込まれるかのようにステレオを見つめていた。アルバムを聴いていた七十九分のあいだで、私の人生が歌われ、私の人生が変わった。なぜ彼は、私の熱い思いを知っていたのだろう?  なぜ私の恐れを明確に語れた? なぜ私の欲望まで体現できた? 誰が彼に話したの?!!

 かつての私は軽率にも、「オールドスクールなモータウンの模倣者」だと、彼に取り合っていなかった。信じられなかった。ヴァージニア州の州都で生まれたあの「PK(牧師の子ども:プリーチャーズ・キッド)」が、私の脳を溶かし、私の感情を高ぶらせるサウンドの祝宴を作り出したなんて。アルバムは、八カ月もの長きにわたり、私のCDプレイヤーを独占した。

 際立った音楽的才能と同様に印象的だったのは、アルバムのリリース当時まだ二十五歳だったディアンジェロ(本名マイケル・アーチャー)が《Voodoo》で示した高度な感情的知性だ。《Voodoo》は、若者の作品ではなかった。これは、成熟した大人、音楽業界の実力者の作品だ。《Voodoo》はソウルフルかつリアルなオペラ。全神経を集中して聴く必要がある。高い音楽性 とは裏腹に、あるいはそのせいか、《Voodoo》はラジオ受けするアルバムではなかった。一部のファンの期待に反して、前作《Brown Sugar》のように一緒に歌える作品にもならなかった。〈Untitled〉のヴィデオが高い人気を博したのとは対照的に、コアなR&Bファンを超えた一般の聴衆を獲得することができなかったのは、こうした要素/性質のためだ。それでも最終的に、《Voodoo》は百万枚以上のセールスを記録し、グラミー賞を二部門で受賞した。また、音楽評論家からは、ほぼ満場一致で賞賛を浴びた。

 《Voodoo》は傑作に他ならない。ギタリストのチャーリー・ハンターは、「知性と直感の完璧な融合」と同アルバムを適切に表現している。時間の経過(そして《Voodoo》をクリエイティヴに継承し、進化させた二〇一四年のアルバム《Black Messiah》)とともに、このアルバムを聴くことが容易になったのだろう。リリースから時間が経ったことで、アルバムを批判していた人々や、そこまでアルバムに思い入れのなかったリスナーも、ディアンジェロとコラボレーターが織りなした複雑なタペストリーにしっかりと耳を傾け、真価を発揮した若き黒人アーティストの飛躍的成長と功績を評価することができるようになったのかもしれない。

 本書では、《Voodoo》が誕生した経緯、アルバムに関わった人々、収録曲が人々に残した印象や影響のほか、同作がいかにアフリカン・アメリカン男性の恐れと弱さに踏み込んだか、“タイトルのない”ミュージック・ヴィデオがいかにアルバムを飲み込み、作った本人を破壊しかけたかについて掘り下げていく。

 友人からテープをもらった翌週、私はCDを買った。今でもこの作品は、私にとって欠かせない一枚だ。アルバムはミシェルを魅了することはできなかった。それでも私は、彼女のおかげで、魂を一変させる《Voodoo》という儀式を経験できたことを、一生忘れないだろう。

(この続きは、本日5月14日発売『ディアンジェロ《ヴードゥー》がかけたグルーヴの呪文』にて)

*  *  *

画像1

《書誌情報》
『ディアンジェロ《ヴードゥー》がかけたグルーヴの呪文』
フェイス・A・ペニック=著 押野素子=訳
四六・並製・224ページ 本体1,800円+税
ISBN: 978-4-86647-144-0
2021年5月14日(金)発売
https://diskunion.net/dubooks/ct/detail/DUBK285

耳に取り憑く、呪術的グルーヴの快楽(エクスタシー)に溺れる。
ブラック・フェミニストの著者が現代の視点から読み解く、R&Bの金字塔。

■幼少期に教会で歌ったゴスペル・ミュージックからの影響など、ディアンジェロのルーツを探る。
■エレクトリック・レディ・スタジオでの音楽的実験とソウルクエリアンズ。
■「Untitled (How Does It Feel)」の突然の幕引きが意味するものとは?
■男性原理にスポットライトを奪われた、『Voodoo』陰の立役者。
■「セックス・シンボル」として祭り上げられることの代償。
■『Voodoo』だけでなく、デビュー・アルバム『Brown Sugar』や最新作『Black Messiah』も考察。
■日本語版には、1995年のディアンジェロ来日に同行した訳者・押野素子のあとがきと木津毅による解説を収録。

〈目次〉
過去は現在の序章(プロローグ)

第一章 呪文は唱えられた
第二章 ホーム・クッキング――男性原理にスポットライトを奪われた愛しい人
第三章 グルーヴを探して――画一的な拍子はお断り
第四章 悪魔のパイ――“盗まれた土地”=アメリカで搾取される、“盗まれた肉体”=黒人男性のサヴァイヴァル
第五章 内なる乙女が歌い上げる愛と官能
第六章 “題名のない”ヴィデオに殺されかけたR&Bスター
第七章 良作は口に苦し――《Voodoo》の評価をめぐって

エピローグ――黒い救世主(ブラック・メサイア)の降臨と、果たせなかった「聖なる三位一体」の夢

マイケル・アーチャーの呪文(スマイル)にかけられて――訳者あとがき
解説 「男らしさ」の呪縛を解き放った《Voodoo》の先見性 文=木津毅

著者紹介
フェイス・A・ペニック(Faith A. Pennick)
シカゴ生まれ。ロサンゼルスを拠点に活動する映画監督、作家。最新作は、プラスサイズの女性スキューバダイバーたちを撮った短編ドキュメンタリー『Weightless』。
訳者略歴
押野素子(Motoko Oshino)
東京都出身。米・ワシントンD.C.在住。青山学院大学国際政治学部、ハワード大学ジャーナリズム学部卒。訳書に『ヒップホップ・ジェネレーション』(リットーミュージック)、『フライデー・ブラック』(駒草出版)、『MARCH』(岩波書店)、『THE BEAUTIFUL ONES プリンス回顧録』(DU BOOKS)など。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?