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モンゴル2000kmの強行軍

(3800字)
全てノン・フィクションで書いているが、職業部分はワケありで脚色している。
ご勘弁下さい。文章も2000kmあり、長文失礼しま〜す。

20歳代も終わりになる頃のある日、大先輩が新潟の支局に来た。
せっかく東京を離れて、地方の新潟で2年間を子育てと子作りで楽しく過ごしていたのに、出向先の組織の人材が足りないので人買いに来たのだ。

「そう言えば、JJ君は海外に興味あると言ってたよね?」
つい「はい」と観光旅行は好きだというノリで口が滑ってしまった瞬間だ。
「じゃあ、来週、辞表書いてね。春から出向だから。」とのたまう先輩。
「えっ???」
子会社に出向するためには、親会社を便宜上辞めていくことになるらしい。
「本社に復帰出来るんですか?」
「ああ、大丈夫だよ、でも、今年から制度が変わって辞職願いだけで『復帰願い』は書かなくていいからね」
嫌な予感もせず、呑気な20代青年は牛のように引かれて浜松町が本社の海外事業部に連れて行かれた。ここから国内転勤で一生を終えると思っていた呑気な青年は、世界40カ国を巡る過酷なそして楽しいジェットコースターのような人生の旅が始まった瞬間だ。

担当はモンゴル。サンバイノー、とモンゴル語の勉強から始まった。
直ぐに団長含めて三人でモンゴルに飛ぶことになった。当時はウランバートルへの直行便なんて無くて、北京経由。下っ端の自分が雑用係で、北京首都空港で両替をしようと為替銀行に行ったら、沢口靖子さん似の超美人がいて、綺麗だけど不機嫌なご様子。普段から山の神に危機察知能力を鍛えられているので(笑)恐る恐る両替を頼むと、不機嫌女史はお金を投げるように放り出す。海外女史も日本も同じで美人には怖い人がいるところだなとの初印象。

お上りさん気分で、ラストエンペラーの歩いた龍の彫り物のある階段の故宮や例の事件3年後の天安門広場を自転車に轢かれそうになりながら横断して視察した。万里の長城も外人専用のロープウエーで2倍の値段で登った。当時は外貨兌換券があったので、現地ではとても両替の北京ダックとしてモテた(笑)

王府井で買ったビニール袋入りジュースでお腹を下しつつ、スッキリしてから北京飯店でダックが北京ダックを食べて、中にあるカラオケに連れて行かれた。その夜、団長が水餃子が食べたいというので、副団長をホテルに残して団長と共に近所のお店に食べに行く。夜9時過ぎに宿泊先の中日友好会館(今はもう無さそうだが、ホテルになっていた)に帰ってお休みをいい別れる。
その夜に事件は起きた。

翌朝、ウランバートルに立つために、早起きしてホテル前の太極拳をする人を眺めつつ副団長と食堂で朝食を摂るが、団長が起きてこない。空港に行く時間が迫る中、痺れを切らして、ホテルボーイを呼んで部屋に入ると、団長がベッドで眠るように死んでいたのだ。

ここからが北京で地獄の10日間の始まりだ。
副団長の部屋に陣取って、行動記録の整理と北京警察、日本本社、大使館等への連絡。直ぐに中国公安部の外事警察が来て、一人づつ事情聴取が始まった。一番怪しいのは夜まで一緒に水餃子喰ってた自分。英語での事情聴取に緊張で脳みそがオーバーヒートしそうだった。

事件性はないとの判断で(当然だ!)、北京の収容所に連れて行かれることなく解放された。それから大使館が世話をしてくれた中国人の若い女史の通訳を連れて、北京市内の各所に行き司法解剖や遺体の安置場所の確認、遺体の帰国手配をしに女史と共に市内を縦横無尽に1週間巡ることになった。あらかた段取りがついた事件発生から1週間後、本社の海外事業部長に伴われて遺族が到着し、自分が最後の経緯を説明してから、冷凍安置所にお連れした。

第一回目のモンゴル行きは中止になり、北京からそのまま全員帰国し、数ヶ月後に再チャレンジした。ここから第二回目のモンゴルの珍道中記になる。

モンゴル2000kmの行程

新団長の下、同じ副団長、自分の3人でいざ北京へ。北京では同じコースをたどったが、王府井のジュースだけは避けた。しかし、もう自分の腸内細菌は北京語を話すことができるようになっているのだろうが、明日モンゴルに行く前に試す気にはなれなかった。

モンゴルエアーの機体は、外側のジュラルミンの殻が内装の隙間から見えるようなオンボロ飛行機だった。ウランバートルになんとかたどり着いて、まずは旧日本兵の慰霊にウランバートル郊外の外人墓地に参拝。そして、副団長は、日本人の代表としてノモンハンも慰霊に行こうと言い出す。ヘリの会社は草原だから国境なんて関係ないとのこと(え本当に中国軍に撃ち落とされないの?と自分)ロシア製の軍用ヘリコプターをチャーターし、曇り空の中、ウランバートル空港で下っ端の自分が真っ先に乗り込もうとしたときに、副団長がガイド通訳とヘリの外で話していて、急にヘリから引きずり下ろされた。空港からの帰りの車で、先週ノモンハン郊外で”悪天候”でヘリが落ちたという話しを聞いた。

歴史の舞台となったノモンハン行きは逃したが、これからモンゴル地方への1週間の旅が始まった。
仕事の内容は省くが、ウランバートルを立ち、アルバイヘールヘロシア製のジープで向かうが、速度が出ない。なぜかと言うと、峠を超える度にチンギスハーンというアルヒ(70°のウオッカ)を小さなグラスに注いで乾杯するのがしきたり。もちろんドライバーも飲む。これで飛ばしたら、命がいくつあっても足りない。途中でお昼になり、道中で正気なのは飲めない自分だけ。コンビニはおろか、食堂なんて地方には無いから、ドライバーと共に遊牧民の家のようなところに行き、お昼をご馳走になりたいことをお願いする。

こんな感じのお昼ご飯

出してもらったのが、ビーフンと新鮮な羊肉炒め。野菜もキャベツか何かが入っていたかは思い出せないが唐辛子とマッチして、とびきり美味い味だったのを30年後の今でも覚えている。お腹が極限まで空いていたせいだろう。

モンゴル第二の都市アルバイヘールに夕方に着くと、まずはホテルに向かう。1軒しかないロシア製の巨大なホテルで、遠くから見ると天に聳えるような巨大な煙突があるホテルだった。お湯が沸くまで2時間以上掛かり、なんとか生きた心地が蘇った。夏真っ盛りの季節だったが、毛布1枚で寒い夜を明かした。

翌日は、カラコルム(エルデネ•ゾー:“100の宝“の意だったかな?)という古代の首都の遺跡を見て、チベット仏教寺院のお経が書かれた車輪?を回してそこを立つ。

温泉フリークの垂涎の場所のホジルトという朝青龍が保養した温泉地を横目に見ながら、もう2度と来れないだろう温泉をチェックできなかったのはとても残念だった。

次の目的地はエルデネトで、宿はゲル(中国でいうパオ)というフェルトのテントだった。遊牧民から借りてポツリと草原の真ん中に作ってもらったやつで、真ん中にストーブがあった。夕食は羊1頭を潰してくれて、日本の牛乳を入れるミルク缶に焼いた石と羊肉を交互に入れて作る。塩味が効いていて絶品のスープと肉だった。馬乳酒は酸っぱくて多くは飲めない。

夕食も終わり、はたと気づくと日本人に必須のお風呂が無い。副団長曰く、モンゴルの遊牧民の女の子が木陰で川に入って清めているぐらいだから、日本男児ならお前も川に行け、と。
雪解け水の流れる川は超〜冷たい。手をつけてみたら、10秒も入っていたら心臓発作になるぐらいだった。
男の角が切れるぐらい冷たいので、5秒で済ませて川から上がってきたら、意地悪副団長が、「もう上がってきたのか、女の子に負けてるぞ」とのたまった。結局川に入ったのは自分だけだったが。

ストーブが燃え盛るテントで早めに就寝。朝方、寒さで凍えて目が覚めたら、ストーブの燃料が無い。テントの中にある羊の糞をパンケーキ状にしたものをつまんでストーブに投げ入れるとしばらくして暖かくなったが、そのまま起床した。

珍道中を続けて調査を済ませてウランバートルに帰ってくると、青森のS村の村長一行が来ているとのことでホテルで面会することとなった。S村は東部のチョイバルサンで水田を作る事業を展開していた。ホテルの部屋に入ると、長老らしき色の黒い人が○✖️△と挨拶するので、てっきりモンゴルの方だろうなと思い、英語で挨拶すると、「オメェ何言ってんだ、オラ日本人んだ。」と、津軽弁に初めて接した瞬間だった(笑)(青森の方、ごめんなさい)それから同行の方が“通訳“してくれて村長の話しを聞いた。

帰りは一緒の飛行機であり、空港に着くと、村長が恨めしげに自分のチェックイン荷物を見ているので、何が起こったのか聞いてみた。鹿の角が税関に見つかって没収を受けたらしい。村長曰く、アレに効くそうだ(笑)角を失った村長一行と共に北京まで帰り着いて別れた。自分はモンゴルの川で角を失わずに帰り着いたことを山の神に報告した。

出向2年目のある日、夏休みを取った翌日に、また次の出向先が決まったと有無を言わさずに決定事項を上司に言い渡された。来年もモンゴルに通うはずだったのに、次はイランだと。それ、どこだろう?と山の神と地図を広げて見てみる。知識ゼロで山の神もろとも強制収容所、いや研修所送りになる。(テヘランの思い出につづく。)(了)

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