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気付けない可哀想な男

「俺にはもう何も無いんだ」

 私の隣に座っている男は、そんな情けない話を始めた。
 さっきまで快楽に溺れていて、その時は悩みなんて無さそうだったのに、正気に戻ってしまったみたい。
 それならずっと正気でいられない状態にしてあげられれば良いんだけど、男はそれが難しい。一度快楽の底(その程度で?とは思うくらいの浅い底)に行くとすぐに水上に戻ってしまう。せっかく溺れさせようとしても「今はダメだ」と言われてしまう。
 馬鹿な人だ。どうせこれから快楽に溺れて正気に戻ることを毎回繰り返すのだから、正気に戻らない方が良いのに。

「何も無い? あなたには奥さんも子供もいて、会社での地位もあって、お金もある。全てが満たされているはずでしょう?」

 否定させるために、聞いた。

「違うんだ。俺は別に結婚なんかしたくなかった。子供なんか欲しくなかった。あいつが俺を愛してるなんて言うから、その言葉の通りに俺は愛されているんだと思っていたのに、あいつは、もう俺のことを何も認めてくれなくなったんだ。
 仕事を頑張っているのに、そのお金は全部あいつらのものになる。俺が稼いだのに、あいつらが要求するものを買い与えなければいけなくなる。だからあの家に俺のものなんて無い。全部あいつらのものなんだ。俺はあいつらにとって邪魔なんだ。俺はあいつらに愛されていないんだ」

「そう……」

 私も愛していない。口には出さなかった。

「だからあなたは私のところに来たんだ。知らなかった……」

「あ……、いや、違うんだ。」

 落ち込んだふりをすると、焦り出す。それはそうだよね。あなたは愛されたいんだもの。

「確かに俺は、家で愛されなくて自分の存在意義を失ってしまっていたんだ。でも、そんなことは関係無く、俺は君を愛しているんだ。もっと早く君に会えていれば、俺は君と一緒にいたかったんだ。
 俺が君を愛して、君が俺を愛する。相思相愛の相手が見つかったのに、運命はなんて残酷なんだ」

 芝居じみた台詞に吐き気がしたけれど、私は男の話を共感しているような素振りで聞いていた。
 あなたが縋り付いてきたから、私はそれに応えただけだ。とは言わなかった。

「奥さんだって、本当はあなたのことを愛している……じゃないの?」

「いや、あいつはもう俺がいる時に笑わない。愛なんて無いんだよ」

 この男は、自分で奥さんを否定すればするほど、もう戻れなくなる。
 自分で間違った分析をしているのに気付かないなんて可哀想。

「可哀想ね」

生きているだけでいいや。