見出し画像

「君の名は。」を観たことによる自浄作用

元々、男女が入れ替わるネタとか、タイムリープとか、タイムスリップとか、あまり得意ではないのだ。そういうファンタジック。なぜかというと、私は誰の体と入れ替わるのも嫌だし、何度も同じ1日を繰り返すなどというのも、自分の身に降りかかったら本気で困ると思っている。それに、タイムリープものは、絶対どこかで矛盾点を見つけてしまって、そこが気になってだんだんよくわからなくなるから、観ていてストレスだし、あまり観ないようにしている。
ので、「君の名は。」も、めちゃめちゃ人気なのは分かっていたけれども、あえて首を突っ込まないようにしていた。

それが今回、お正月にテレビでやるという。すごいもので、私の職場の人たちはみんなもういい大人たちで普段そんなに映画とかアニメとか観ないだろうに、「君の名は。テレビでやりますね!」なんて話題が弾むくらい世の中に浸透していた。
観てみようかな、そんなにみんなが面白いって言うんだったら。
そのくらいの気持ちで録画予約をした。観る前に、周りの人たちに、「時間軸とかが「?」って思うところがあっても、気にせず観ろ」と言われていたので、気にしないよう頑張るぞ。と思って観た。もし気に入らない終わり方でもしようもんなら速攻で録画消してやる。と、敵に挑むくらいの気持ちで観たその映画は、本当に面白かった。

確かに、よくよく考えれば矛盾点はあるのだろう。けれどもその部分より、あの1シーン1シーンの絵の美しさ、主人公2人のキャラクター、人が必死になって何かに向かって頑張ることの素晴らしさ、ストーリーの骨組み、うまく言えないけれど、今の私にはぐさぐさと刺さる要素てんこ盛りだった。

私は、良い物語には、2種類あると思っている。一つ目は、「ああ、良い物語だったな。」と感動し、余韻に浸ることが出来るもの。そして二つ目は、観終わった後に、自分もそちら側に行きたい。と、心が奮い立つもの。
今の私にとって、「君の名は。」は後者の物語だった。

そういう感情は、若いころによく感じていたものだった。昔から映画がとても好きで、一人で良く映画館に行った。良いな、と思う映画は、2回も3回も映画館に通って観た。クリストファーノーラン監督の「ダークナイト」なんかは、世の中にはこんな面白い映画を作れる人たちがいるのに、私はここで何やってるんだとただただ悔しかったことを覚えている。20代のはじめの頃。その頃は、日本アカデミー賞なんかも、謎の悔しさから観るのが嫌で観ていなかった。まだ社会に出て、何も成し遂げられていない自分が、その未熟さが、ただただ。

歳をとるにつれてそういう感情は減っていって、今ではもうアカデミー賞を観ても特に何を感じることもない。それはそれでとても生きやすくなって良かったと思っている。思春期の頃の私は、自分でも心配になるくらい感受性の塊みたいな生き物だった。圧倒される絵画を見ては絵の前でぼろぼろと泣いてしまい、面白い映画を観ては1週間くらい現実に帰って来れなかった。それがだんだん、心が大丈夫になっていることに気づいたのは20代の半ばぐらいだっただろうか。その話を母親にしたとき、「そうよ。でも鈍くなるっていうのは自分を守ってくれるってことでもあるのよ。だってそうじゃなかったら辛すぎて生きていけんでしょ。」と、そんな風に返されたことを覚えている。

けれども、だからこそ、若い頃のその自意識は宝だ。そのエネルギーがあったからこそ出来たことがたくさんあった。そういう気持ちを、久しぶりに思い出した。「君の名は。」を、観たから。

物語は、触れる時期やタイミングによって、全く違う感情を受け取る側にもたらす。10年前に大好きだった作品が、今でも大好きと思えるとは限らない。だからこそ、今偶然手に取る作品は、今の自分に必要な作品で、観るべくして観ているんだと、私は映画を観る時にいつも考える。今回のこの出会いはなかなかの発見だった。とてもありがたいことだ。

けれども忘れっぽい私は、きっとこんな感情もひと月もしない間にすぐ忘れてしまうから、大切にしたくてこんなところに文章をしたためてみている。身勝手な、自分語り。まあでも、良いじゃない。そういうのも。

#日記 #映画


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?