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美濃加茂市長汚職事件の真実 19

NHK岐阜の酷い記事出てましたね(笑)
こういう思い込み、妄想で記事を書いてしまう記者はどういった神経をしているのかと思います。
少し取材(せめてネット検索)すれば、色々と出てくることもあるのに、思い込みで突っ走ってしまう。
まぁこういう輩はバカで済みますが(公共にデタラメ記事を垂れ流すことはダメですが)事実を突きつけられても修正できない郷原弁護士(こっちは仕事なのでしょうがないか)やジャーナリストと名乗ってる江川紹子氏などは本当に酷いと思います。
全ての記事がデタラメに見えてしまいますね。

と、いうことで江川紹子氏と共演したニコニコの話からです。

https://www.nicovideo.jp/watch/sm23969732

人の印象って怖いですよね。
私がスーツを着てメガネをかけていると、あたかも「普段からこういう人」というイメージになります。
私はよく服装や髪型身につけるものを変えて自分を演出します。
こうすることで、相手に対するイメージを作ることもできますし、相手の人を見る目を見極めることもできます。
皆さんも見た目に騙されないようにしましょうね。

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出演前の話は前回記事で書いたが、この出演の意味は重く受け止めていた。
言葉の一語一句を選んで話していたし、今見てもらしくない言い回しで逃げている部分も多々ある。

とはいえなかなかヤバいヒントもぶちこんでいる。

視聴者のコメントも私のコントロール下で批判していたりもする事から我ながら
「ペテン師だな」
と感じた。
そのペテンで奪うのは
「金じゃなくて心」
ですが。

機会があれば、「藤井は貰っていた」という前提で見て頂くと見えてくるもの、聞こえてくる事があると思う。

この中でひとつ私が本気で怒っている場面がある。

「そういう人間と付き合ってるのが脇が甘い」という部分だ。

この事件ですぐに訳知り顔でこういう意見を言って批判するバカがいる。

それを言わせて貰えば
「金を貰ってしまうような藤井と付き合った私とN氏の方が被害者」だ。

自分の事業の為に、金を渡したり、接待をするのは人の心として当たり前の事だと思う。
それに対して毅然と対応する姿勢が大切で、渡された金を簡単にポケットに入れる人間に問題がある。

仮に批判する人間が言うように
「清廉潔白の奴とだけ付き合う」
人間に何ができるだろう。

知恵を持った人間、野心のある人間にはその功罪は必ずあるもので、そのせめぎ合いこそが社会であり、そこから政治が逃げてしまうことや、怯えてしまうことは
「政治と社会の分離」
に繋がる。

まさに今の日本の状況はそうではないだろうか?
こんなにスマートフォンやテクノロジーが進んでいるのに国はアプリのひとつもろくに作れない。
当然経済も国の考えと社会の実態は乖離しており、何をやっても付け焼き刃にもならない。
コロナ騒ぎなどその典型。
いまだに「品行方正」を装った連中の金儲けの為にしか政治は動かない。
だから私は「D.S.P Lab」を設立したし、身の危険も顧みず行動した。
やはり物事は見た目や、目に見えるものだけではなく、本質を見極めることが大切だ。

少し話は逸れたが、私はこのニコニコ動画でも一切「藤井は貰ってない」とは言っていない。
もっと言えば、ほぼ事件に言及していない。

郷原や江川紹子に利用される為だけに東京まで出向き、その役割を演じた。

の時はそれが「藤井の為」であると信じていたし、実際「一審無罪判決」が出たので間違いではなかったのだろう。

だが、最後に放送内でも触れられているが「出演するリスク」はとても大きなものだった。

勝手な印象で語る人間、何より
「犯罪者2人と関わった人間」
というリスクは本当に大きなもので、その後の人生にも大きな影を落としたのは事実だ。
それに対して、後悔はしていないし、恨みもしていないが、そこまでして守った「藤井」とは何だったのだろうと言う虚しさはある。

ただ、それとこれは別。
今、私が見るべき相手は、この放送でも結果的に騙す事になってしまった、美濃加茂市民の皆様に対しての罪だけだ。

ニコニコ生放送が終わり、名古屋に帰りまたすぐに検察の調べが始まった。
こんなに容疑者でもない人間が連日取り調べを受け続けることは異例中の異例で、完全に「自分の証言が全て」となっている事を実感した。

検事室に入ると検事は
「ニコニコ見ましたよ。ありがとうございます。さすがタカミネさん、情報漏洩ひとつもせずに約束守ってくださってありがとうございます」
と笑顔で迎えてくれた。

私はこの対応に少し困惑したが次の言葉で全ての状況が飲み込めた。
「でも、何よりも出演前に私に許可を求めてくれた事が嬉しかったです。出るも出ないもタカミネさんの自由なのに、連絡してくださった事、約束を守ってくださった事には本当に感謝しています」
思った以上の効果だった。

師匠に「検察に了解取れ」と言われたから、連絡しただけだったが、ここまで私に対する信頼が高まる事になったのは大きな収穫だ。
今となるとあの検事には本当に悪いことをしたなと思っている。

彼の「検事という立場」と私との関係の板挟み、さらには彼は「藤井は貰ってない」と信じてしまっていたような気もする。
そうなるように話してはいたが、ここまで信頼されると罪悪感すら感じる。

当時は「藤井を守るため」に必死だったので、本気でコントロールしていたが、私の「コーチング技術」は禁断の「マインドコントロール」をしてしまっていたのかもしれない。

実際この当時の事件に関わる人間、及び事件を見ている人間は私の作ったショーを見てそれだけで事件を判断しようとしていた。

今、冷静に考えて欲しい。

私が「トイレに行ったか行ってないかで事件の全てが決まる」なんておかしくないだろうか?
一審ではそれだけが争点になり、裁判長も「同席者の証言は信用に値する」と言ってしまった。
なぜそのような事が起きてしまったのか。

私と検事の関係性も去ることながら、検察が欲しかった私の供述は
「絶対とは言い切れない」
と言うものだった。

単純にこの世に「絶対と言い切れる」ものなどない。

ましてや「トイレに行ったか行ってないか」など、絶対と言い切れる訳が無い。

ここが検察の落とし穴だった。
多分長きの検察の歴史、捜査のノウハウの中でこのように「絶対とは言い切れない」と言うことで証言を緩めてきたのだろう。
それを私は逆手に取った。

「絶対ではないことを絶対と証明する方法」それは「論理的に証明し、客観的に証明すること」だった。

お分かり頂けるだろうか?

「絶対トイレに行ってない!」といくら言ってもそれは「絶対ではないですよね」と否定できる。
しかし「絶対とは言えないが、論理的に客観的な事実としてトイレに行っていない」となれば、今度はその論理、客観性を否定しなければならない。
ここに事実があれば、それを否定することは難しくなる。

これも私は最初から仕込んでいた。
実際あまりトイレには行かないが、まず家を出る際に必ずトイレに行く。(まぁこれがあまりトイレに行かない1番の理由だが)
また、調べの前、メディアとの会食の前など人と会う前にトイレに行っておく。
これをする事で私はこの当時、誰といるときも「トイレで中座する」という事はなかった。
10時間以上の取り調べの際も、夜8時から朝の5時まで酒を飲んでる際も一切トイレに行かないので人は「本当にトイレに行かないんだ」と自分の実体験で確信する。

既に検事にそれは刷り込まれていた。

検事は何度も中座してトイレに行くが私は一切行かない。
これで一度でも行っていれば検事の印象は変わったと思う。

また各メディアとの会食でも同じような状況になれば、メディアの人間も「ああ、トイレに立ってないんだな」と信じる。
この刷り込みは大きかった。

一度、郷原弁護士がバカな事を言い始めた事がある。
「タカミネさんの膀胱をレントゲンなどで撮ってトイレに行かないこと証明できませんかね?」
本当にバカな考えだ。
ただ逆に言えば郷原弁護士も私との付き合いの中で「トイレに行かない人間」という事を信じていたのだろう。

人の考えなんて簡単だ。
「そんなわけないだろう」と思うものでも、逆に真実として突きつけられると簡単に信じてしまう。

それが事実なら尚更だ。
そうやって当時の事件関係者は検察の人間に至っても「タカミネはトイレに行かない」と信じていた。

これが「3つの『F』」の「フェイス」だ。

「3つの『F』」の話はこちらで

次は「ファクト」だ。
ガストの話では、捜査関係者の全てが勘違いしていた関係性
「藤井>N氏>タカミネ」
の力関係が真逆の
「藤井やN氏が私の分のドリンクバーを取りに行っても私が取りに行くことはない」
と言う事実。

これを刷り込むため私は演じた。
元々体育会系(バンドマン)でもあるし、あまり自分の事を語ったり、自分の力を見せつけたりする事は好きではなかったが「強烈な個性」と共に「圧倒的な力」を見せつける事が必要だった。

検事調べで哲学の話をしたり、メディアの人間にも、私の持っている色々な事件(この事件以外)の裏側を教えた事もあった。

私の元には色々な所から情報が入っており、当時ちょうどある事件で強制捜査が入る事を掴んでいた私は、いくつかのメディアにその情報を流した。
信じて張り込んだメディアはスクープを取り、信じなかったメディアは後悔をした。

そしていつからかメディアの接待は「藤井の事件」ではなく
「私から情報を聞きたい、色々な他の事件の見解を聞きたい」
と言う勉強会に変わっていた。

こうなれば、藤井との圧倒的な上下関係も理解できる。
結果「トイレには行ってない。ドリンクバーも取りに行っていない」となる。

2度目の金が渡された居酒屋は「トイレに行っていない」事は、刷り込んでいるものの「酒を飲んでいるのでさすがに行っているのではないか?」という疑念もあった。
その為メディアとはできるだけ長い時間多くの酒を飲み「それでもトイレに行かない事」を見せつけた。
メディアの人間は自分がトイレに立つ度に「本当にトイレに行かないんですね」とおかしな感心までしていた。


そして居酒屋ではもうひとつ仕込んだ。

ある東京キー局のテレビ局の取材の際に事件現場の居酒屋を選んだ。
そこで「トイレの場所の当てっこをしよう」と持ちかけた。
「え?なんでですか?」
「俺はいまだにここの店のトイレの場所を知らないから。それを証明しよう」と。
同時に自分が予想した場所を指を差すルールで指差した場所は同じだった。

実は、この話は裁判でも使われる。
詳細は裁判の時に話すが、この際私がトイレの場所を知らないことが証明された。
さすがはキー局、この話がメディア耳に入るのに時間は掛からなかった。
(放送で記者が語ったのかもしれないが、その放送は事情があって見ることができなかった)

これが事件発生時に起きた「ファクト」となった。
「フェイス」と「ファクト」を仕込めば当然「フェア」の判断はそれに引っ張られる。
そして「絶対とは言い切れない」私が席を立っていない事が「客観的事実」として認識される事となった。


今回は事件の話はここまでとするが、
「3つの『F』」
の記事を読んだ人は、少し混乱しているだろう。

「迷わず生きるための哲学」のはずが、ミスリードではないものの、私がそれを利用して事実を植えつけた。

「3つの『F』」の話はそういうことでもある。
自分が何かを判断する時にも使えるが「相手に何かを判断させる」時にも利用できる。
ここで嘘を信じさせると詐欺行為だが、今回の事件のように「嘘ではないけどどうでもいい事」を信じさせ、あたかも「重大なこと」のように感じさせる事もできる。
人に伝えたい事や、知って欲しい事を伝えるにはとても効果のある手法だ。

とはいえ、こうやって紐解くと「少し怖い話」に聞こえる人もいるだろう。
「逆に刷り込まれるのでは」という不安に駆られる人もいると思う。

そうならない為に必要な哲学的な考え方もある。
また別の機会にそれはまとめようと思う。

この事件の話、私がこの事件をコントロールし「一審無罪」を勝ち取った事、また最終的に「有罪」に追い込んだ事。
ここには全て私の「哲学的思考」が深く関わってくる。

そしてそれは、何ら難しい物ではなく、これを読んでいる全ての人が簡単に実践でき、自分の人生を豊かにできるものだ。

だから結構大事な話だ。

「人をコントロールする」
というと聞こえは悪いが、言い方を変えれば
「自分の事を自分が望むように理解してもらう」
という事。

これはとても大切な事で、同時に相手を正しく理解する事にも繋がる。
先程言った「付き合う相手を選ぶ」という話にも繋がる。
見た目や、印象、周りの噂話で人を見るのではなく、しっかりと自分の価値観で見極め、感情に流されず自分を律し、より良い人付き合いのヒントとなる。

それにはまだ私の「哲学講座」は足りないが・・(笑)

興味ある人は今後その辺りもお楽しみに。

次は「検事調べの後半」と「裁判に向けてのプランニング」の話をします。

いつも通り、感想やご意見、ご質問はお気軽にコメント欄やツイッターへ(DM解放してますので)

タカミネヒロシ

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