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自分の感情なのにうまく把握できない

「自分の感情を認識するのに時間がかかる」

これは以前から私が自分の課題だと思っていることの1つ。
人との会話中、特に、ネガティブな感情になった(であろう)ときに、それをうまく認識できず、それが故に言葉にもできず、モヤモヤとした気持ちをお腹の底に溜めてしまう。

私がこのことを単なる悩みではなく、「課題」と捉えているのには理由がある。それは、このことが私個人の気持ちを曇らせるだけに留まらず、私と誰かの人間関係構築の邪魔になるからだ。

私はネガティブ感情が発生したその時・その場では表現できないため、それらは私の中に蓄積されていく。溜まったネガティヴ感情を根本的に消化していくには、その感情が生まれた原因に向き合い、怒りや悲しみなどを(感情的に、ではないとしても)表出させる必要がある。その感情が相手との会話の中から生まれたものであるならば、その相手の前で、自分の気持ちがマイナスに振れたことを伝える方法が最もシンプルだ。

しかし、その場・その瞬間に自分の感情をうまく認識できない私にとってこれは容易ではなく、試みたとしても、ネガティヴ感情が生まれたときからは少し時間が経った頃にその機会を設けることになる。
しかし、これはなんてハードルが高いことだろうか…。想像してみて欲しい。
例えば、数週間ぶりに会った知り合いに、
「実はこの間あなたと話している時、◯◯というところが心に引っかかって、悲しかった/腹立たしかったの。」
と、言われたらどうだろうか。
「今更!?時間が少し経ったのにわざわざ伝えてくるようなことなら、その時に言ってよ!!!」とは思わないだろうか?
私はそのことが怖い。

もちろん、そんな弱音は黙らせて自分の気持ちを伝えなければならない場面があることはわかっている。
だが、最初に伝えたように、私は「自分の感情を認識するのに時間がかかる」ということを「課題」として認識し、文章を書き始めてしまうほどの頻度でこの現象に襲われる。つまり、先ほどの方法を都度実践していると、「面倒な奴認定」を受けて、周りの人が離れていってしまう可能性がある(と怯えている)。

以上の思考を辿ったところで、まず一つ言えるのは、

> その感情が相手との会話の中から生まれたものであるならば、その相手の前で自分の気持ちがマイナスに振れたことを伝える方法

は、頻繁に使える得策ではないということ。

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そもそも、なぜ私は自分の感情を即座に認識できないのだろうか。
恐らくは、自分の感情に関して、「認識したら伝えなければ」と思っているからだろうと予想している。感情を自分の中で完結させて収めることが下手だから、アウトプットせずにいられないのだ。また、「自分を理解して欲しい」という気持ちが強いことも、私がありのままの気持ちを感じるうえで障害となっているように思う。

実をいうと、感情認識が苦手な根本的原因と思われるものは別にありそうなのだが、それを今回書こうとすると長すぎて力尽きるため、また別の機会で。

話を戻すが、私は「自分の気持ちを外に出したい/理解して欲しい」という欲求がある。加えて、誰かに何かを伝えるときは、できる限りその事柄を正確に認識し、できる限り正確な言葉を選んで言語化すべきだという意識も根底に持っている。特に、ネガティヴな感情については、私から発された言葉が誤解を生んだり、相手を不快にさせたりするリスクが高く、そのことが私に大きな恐怖心と慎重さを抱かせる。結果として、「認識」の基準が高くなり、「伝える」ことのハードルが上がっているのだ。

ここでふと気になったことがある。
それは、自分以外の人は感情を表に出すということについて、こんなに面倒な思考を経由するのか、ということだ。
もしかして、
もしかすると、
そんなに深くは考えずに感情や素直な気持ちを表現しているのはでないか、と想像してみる。

こんな文章をここまで読んでくれた、あなたに尋ねたい。あなたは、人との会話の中で生まれた自分の感情(特にネガティブなもの)を把握して、直接的あるいは間接的に相手に伝えるとき、正確に自分の気持ちを認識した上で言語化しなければ、というプレッシャーを強く感じるだろうか?

他の人はどうなんだろう…と考えてみながら、さらに気づいたことがある。
それは、理性の対義でもある「感情」を、頭で考えて把握・管理しようとする行為が困難なのは自然なことなのではないか、ということ。

そもそも、「感情」という不安定で絶えず揺らいでしまうようなものを、「正確に認識する」および「正確に言語化する」とは、どういうことなのだろう。
私は、感情を詳細に把握することについて神経質すぎるのだろうか。

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「自分の感情を認識するのに時間がかかる」

私はいまこの課題について検討している。ここまで、課題の意味とその原因について書いてきた。

ここからは、克服のためのアイデアをここに書いて、この課題についての検討に一区切りつけようと思う。
私が一人で考えて思いついた事柄のメモにすぎないが、早速いくつか方法を並べてみる。

感情を素直に認識して表に出す、ということを意識的に実践する。

まず、自分の感じた気持ちに対して、ストッパーをかけないこと。
「○○と思うべきだ」「△△という気持ちは自分勝手だ」などという、自分の中で作り出した「だれか」にとっての理想論や、自分自身による主観にまみれた客観的意見に「わたし」の心の機微を妨害させてはならない。
自分以上に自分に寄り添える存在は居ない。「自分『なんか』を大切にするなんて…」と足を引っ張ろうとする「わたし」も居るけれど、その思考から脱却したい自分もたしかに「わたし」だ。せめて心に余裕があるときくらい、変わりたい自分の意見を尊重してあげたっていいかもしれない。

②自己完結しようとせず、対話することを恐れない。

先にも書いたように、私には、自分の感情を可能な限り正確に認識し、正確な言葉で表現したいという意識がある。
この意識は、私にとって認識と言語化のハードルを上げるだけではなく、「自分の意思/考えを明確に持っていなければならない」というプレッシャーにもなっている。人と会話しているときには、自分の意見を持っていないと話が進まない、または相手を困らせるということを強く気にしすぎているのか、自分の中で一つ答えのようなものをもっていないと発言してはならないような気すらしている。

しかし、すべての物事に対して、明確な意見を持つということは(少なくとも私にとっては)非常に難しく思えるし、そうある必要もないのではなかろうか、と考えてみたりもする。加えて、自分一人で答えを出そうとするよりも、人とのコミュニケーションの中で自分には思いつかなかった結論に行き着くことにも良い点はありそうな気がする。自分の中で方向性や結論が見えていなくても、相手との対話の中でそれらを見出す練習をすることで、自分にも他人にも寛容になっていける気がする。

また、自分の発言によって誤解を生んでしまったり、相手に不快感を抱かせてしまったりしたら…という恐れについても、対話の可能性に目を向けると少し気が楽になる。そもそも、誤解などを今後一切生じさせずに生きていくというのは、恐らく不可能だ。別の個体同士が関わり合って生きていくのだから、誤解することもされることも、傷つけることも傷つけられることも、自然に起きることだ。そう考えてみると、誤解や不快感を生じさせないことにばかり執着せず、それらが生まれてしまった場合に、そのあとリカバリーするためのコミュニケーションに積極的である方が、人間関係を前進させ、かつ、様々な場面で応用の効く力を育めそうだ。

対話は自分一人でできるものではないため、簡単に実践できる方法ではない。だが、自分を知ってもらい、相手のことを教えてもらい、そこから生まれる「わたし」と「あなた」のコミュニケーションの可能性を私はまだよく知らない。私がこれまでの人生において、やや過度に、自分と他人を区別してきた結果だ。今後は自分の内側に意識を向けてばかりではなく、少しずつでも、他者への恐れ、他者と関わって自分が変わることへの恐れに対して耐性をつけたい。

③ 【感情的=未熟】ではないと理解する

私は、感情のコントロールができないことにとてもストレスを感じる。そしてどこかで、感情的な部分を人に見せる自分は、未熟で恥ずかしいと思っているような気がする。他者に対して同じことはあまり感じたことはなく、なぜ自分に対してだけこのような意識を持っているのかはわからない。

一方で、最近は「私の人生なのに、私の感情を後回しにしてどうするんだ。」と、思うことも時々ある。
他者に対して、自分の感情全てを開示する必要はないし、本当の気持ちとは違う気持ちを装うことが適している状況もあるだろう。しかし、装ったつもりで本当に自分の感情を見失ってしまっては、自分がわからなくなってどんどん生きづらくなっていく。

①とも繋がるが、自分の感情的な部分を「未熟」「ダメ」と思わず、まずは自分で自分を受け入れることが私にとっては重要そうだ。そして、感情を表に出したとき、もしもそれを否定するような他者が現れたなら、必要以上に自分が傷つくのを防ぐために諦めてしまう大切さも心に留めておきたい。

以上の①〜③が、感情認識速度の遅さを改善するためのアイデアだ。
正直言って、いずれもかなり抽象的だが、いまの私が考えられるのはここまでだった。まずは3つを意識しながら、日々感情を認識する練習をしていけたらと思う。

長くて拙い文章を、最後まで読んでくれてありがとう。

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