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怪談市場 第六十六話

『バンバンバンバン』(I君 3)

海は、とくにコンクリートの平面で構成された漁港は、反響によって予想外の方向から思わぬ音が聞こえ、首を傾げることがある。


I君は休みの前日、仕事帰りにK港へと足を延ばす。ルアーでアジを釣るためである。柔らかな竿で極細の糸に結んだ小さなルアーを投げる。小刻みに水深を変えながら探り、吸い込むような微かなアタリをとる。針に掛かっても油断できない。口が弱いアジは、少しでも強引にやりとりすれば針が外れてしまう。要するに、繊細で玄人好みの釣りである。

I君の休みは不定期なので、釣行はたいてい平日の深夜となる。1年ほど前、いいポイントを見つけた。昼でも釣り人が少ない穴場的な岸壁。他の釣り人と遭遇したことは一度もなく、ポイントは貸し切り状態でのびのびと竿を振れる。釣果も悪くはなかった。

ただ、ほぼ毎回、妙なことが起こる。

闇の中、集中してルアーを泳がせていると、妙な音がする。

バンバン……。

低く、こもった、なにかを叩く音が、遠く響く。

バンバンバンバン……。

反響して方向はわからないが、車のガラスを叩くような音。

周囲を見回せば、荒涼とした埋立地に車は一台だけ。I君が乗ってきたSUV。海に臨む工業団地の明かりにシルエットが浮かんでいる。二〇〇四年のソーラス条約改正以降、港湾部における一般車両の乗り入れは大幅に規制されることになったが、めずらしくこのポイントは岸壁まで車の乗りつけが可能だった。

(誰か俺の車叩いてんの?)

不審に思って目を凝らすが、暗くて確認できない。少しずつ移動しながら広範囲に探る釣りなので、気がつくと車を停めた地点からずいぶん離れてしまっていた。釣り場では車上荒らしは付き物である。面倒ではあったが、念のため車まで戻ることにした。

何も、異常はない。

ドアをこじ開けた形跡もなければ、窓ガラスに手形もついてない。周囲にも人の気配は皆無だ。

そんなことが、釣行のたびに一度か二度、あった。

やがてI君は、車の窓ガラスを叩く音が聞こえても、いちいち確認することをやめた。せっかく釣りを中断して車まで戻っても、どうせ異常はないのだから。

「工業団地の音が風の加減で届き、それが海面や防波堤に反響して、車の窓ガラスを叩くように聞こえるのだろう」

そう自分に言い聞かせ、気にしないことにした。


一年ほど過ぎたころ、I君は初めて日中にそのポイントを訪れた。

その日は仕事仲間の釣り初心者を伴っていたため、ルアー釣りではなく五目狙いの投げ込み釣りだった。様々な魚種が釣れる青イソメという虫餌をつけた仕掛を投げ込み、竿先に鈴をセットして魚が掛かるのを待つ。いつものI君にしてみれば退屈な釣りだが、片手間にいろいろと遊ぶこともできる。キャンプ用のバーナーで湯を沸かし、インスタントラーメンを作ったり。釣れた雑魚を岸壁に住み付いた猫に与えたり。魚肉ソーセージをトンビにさらわれて大騒ぎしたり。これはこれで面白い。

深夜はひと気のないポイントも、日中はがちらほら竿を出す人がいた。釣り人どうしの情報交換も、楽しみのひとつである。

この日I君は、隣で竿を出していた中年男性と気が合って、雑談に花を咲かせた。彼は地元の住民で、周辺の釣り場事情に詳しかった。

おかげで、このポイントがなぜ人が少ないか、その謎も解けた。

「一年とちょっと前かな……ここで事故があってさ」

彼の話によれば、以前この岸壁から、乗用車が海へ転落したらしい。その日も彼はこの場所で竿を出しており、一部始終を目撃したという。

「家族連れでね、夫婦と、幼い子供二人の計四人。事故なのか無理心中なのかはわからないが、どっちにしてもいたましいことだ」

大きな水音に驚いて目を向けたときは、すでに車は水に沈みかけていた。二月下旬の、海水温がもっとも低下する季節。水深も潮流もそれなりにある場所だけに、飛び込んで助けることもできない。一一〇番へ通報した後は、沈みゆく乗用車を手をこまねいて見ているしかなかったそうだ。

やがて警察と消防と海上保安庁が到着したが、車が引き上げられたときには沈んでから一時間以上経過していた。

当然、誰ひとり助からなかった。

「忘れられないよ。沈みゆく車の後部座席で、二人の子供が必死に助けを求めるんだ。小さな手のひらで、リアウインドウを叩いてね。こう、バンバンバンバンって、叩いてね」

車が沈んで見えなくなっても、低くこもった子供たちのSOSが、バンバンバンバンと、しばらく岸壁に響いていたという。


当時を振り返ってI君は言う。
「夜中に釣りをしていて聞こえた、車の窓ガラスを叩く、バンバンバンバンって音……あれは陸上からじゃなく、海の底から聞こえていたのかもしれませんねえ」


I君 1

I君 2

#怪談

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