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怪談市場 第二十七話

『逃げ場のない防波堤』

K港のM防波堤は、近郊の釣り人の間で有名である。理由はふたつ。ひとつは、魚がよく釣れるポイントとして。もうひとつは、やたらと死亡事故の多い魔の釣り場として。

沖に向かって4kmも伸びる堤防は、ひとたび海が荒れれば大波に洗われ、逃げ遅れた釣り人たちを容赦なく海中へ引きずり込む。当然、自治体は一般人の立ち入りを禁止しているが、それでも釣り人の侵入は後を絶たない。堤防の入り口には鉄格子を思わせる高さ3メートルの柵があり、鉄条網で覆われているが、釣り人たちはあの手この手で乗り越える。柵には点検整備用の扉があり、ごつい鎖と南京錠で施錠されているが、この合い鍵が闇で取引されているとの噂もあった。鉄柵に掲げられた立入禁止の看板には、過去この防波堤で命を落とした釣り人の数が赤い字で記されている。古い数字を白で塗りつぶしては新しい数字を頻繁に上書きするため、死者数の部分だけ塗り重ねた塗料が厚い。

Sさんも、この恐るべきM防波堤の常連だった。

命知らずが数多く集う魔のポイントにおいて、Sさんは自他共に認める慎重派で通っていた。必ずライフジャケットは着用する。天気予報で波高が2メートルを超える日は、まず現れない。現場に顔を出しても、波の様子にわずかでも不安を覚えたら竿を出さずに帰る。少しでも荒れだしたら魚が釣れ盛っていても竿を納めて帰路につく。

Sさんが奇妙な現象を目撃した日も波は静かで、ほとんどベタ凪の状態だった。にもかかわらず、突如なんの前触れもなく高い波が押し寄せた。海が穏やかでも、はるか沖合に低気圧があると、沿岸で単発の大きなうねりが発生することがある。釣り人たちの間で「ヨタ波」と呼ばれて恐れられている現象だ。

「まずい!」

そう思ったときにはすでにテトラポットで砕けた波飛沫が壁のようにせり上がって頭上から降り注ぐ。防波堤の表面を波が洗い、アイスボックスや釣り竿、小物類を洗い流していく。流れの深さは踝のやや上。

「膝まで波がきたら危ないが、この程度ならしのげる」

そう自分に言い聞かせ、Sさんは重心を低くして流れに耐えた。足をすくわれて転んだら、この程度の流れでも全身で水圧を受け、流されてテトラポットの隙間に吸い込まれる。そうなればライフジャケットも役に立たない。踏ん張りながらもSさんは、堤防の表面を流れる波の中に奇妙な物を見つけた。

「イカの群れ?」

無数のイカが、流れにのって泳いでいる。スルメイカだとすれば、かなりの大物である。身の危険にさらされながらも釣り人の本能で、Sさんは目を凝らしてイカを観察する。やがて、途方もない違和感を覚えた。

「イカじゃない……あれは、腕だ!」

イカの胴と見えたのは血の気が失せて痩せた前腕だ。ゲソと見えたのは何かを求めてうごめく指だ。そんな腕が群れをなし、からみ合うように堤防の上を波とともに流れていく。と、1本の腕がSさんの存在に気付いたかのごとく、群れを離れ足元に泳ぎ寄ってきた――怖い。だが逃げられない。下手に動けば波に足をすくわれる――指先が長靴の先に触れかけたそのとき、ようやく波が引き始め、他の腕の群れとともに流れに乗って防波堤の縁から落ちていった。

「助かった……」

安堵の溜め息をつくとSさんは、テトラポットの間に落ちた釣り竿やアイスボックスに見向きもせず、体ひとつで防波堤から逃げ出した。自分を取り囲む海、その水面下に、さっき見た腕の群れがビッシリとうごめいているのではないかとの妄想に囚われ、いてもたってもいられなかった。

「あの防波堤で死亡事故が多発する理由がわかったよ。海に落ちて死んだ連中は、きっとあの腕に捕まったんだ。俺は運よく助かったのさ。間一髪で。せっかく拾った命だ。もう金輪際あの防波堤には近寄らない。絶対にな」

そう言ってSさんは声を震わせた。

――という話を、数年前に人伝に聴いたまま、すっかり忘れていた。

私自身はSさんと面識はない。この話をしてくれたのは釣り仲間のI君である。彼は渓流釣りから海釣りまで幅広くこなし、顔も広い。

そのI君から先日、電話があった。これといっ用件はなく、最近の釣果を互いに報告し合っただけだ。話を切り上げる間際、I君は思い出したように問いを発した。

「ところで俺、以前Sさんの話ししたよね?」

その言葉で数年ぶりに、M防波堤の話を思い出したのだ。「そんな話もあったねえ」と懐かしむ私に、I君はなぜか声をひそめて話を続ける。

「そのSさんがさ、ちょっと前から行方不明でね」

「それは心配だ。どこに行ったか知らないけど、早く見つかるといいね」

「いや、行った場所はわかってる。彼の車が発見されたから」

「……ひょっとして、M防波堤の入り口でか?」

「なんだ、知ってたの?」

いや、知るわけもない。たったいままでSさんの存在すら忘れていたのだ。ただ、I君が「Sさんの行方不明」を告げた瞬間、ある光景が脳裏をよぎった――猛獣の檻を思わせるゲート。誇らしげに死者数を示す立入禁止の看板。その向こうは永遠に続くかと錯覚する長い防波堤と、テトラポットに砕ける波。手前には塩と砂で汚れた、乗り捨てられて久しい乗用車――そんなビジョンが、ありありと浮かんだ。

あれほど恐れていた場所に、金輪際近寄らないと誓ったはずのM防波堤に、Sさんが訪れたことは間違いない。それほど魅力的な釣り場だったのだろうか。あるいは、あの防波堤を餌場とするナニモノかに魅入られたら最後、逃げることはできないのだろうか。

Sさんが発見されたという話は、まだ聴かない。

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