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挑戦」は「生命」のエネルギー源

「自分の人生を自分で止めないことですね。いつ人生を終えるかどうかは『天』が決めること。何かに挑戦することを止めたら、『生命』のエネルギーも自然に止まるようになってしまいます。人間は本来、何かのために生きています。何かのために生きているからこそ、『生命』の炎を燃やし続けることができるのです。命の炎を燃やすことを止め、すなわち、何かに挑戦することを辞めたら、後は病気のプロセスが始まるのではないでしょうか?」

ある患者様に、検査反応を通じて、冗談のように話した内容でしたが、後でとても大切な会話だったと感じたのでシェアさせていただきます。

しばらく通院していただいている80代の会社経営者の方で、一旦症状が落ち着いた後、数ヶ月ぶりに症状がややぶり返した治療のプロセスでの会話内容でした。その患者様は施術後、「分かりました。やります!」と言われ、具体的に何をやるのかは分かりませんが、おそらく、自ら身を引くような行動は取らないという意味で「やります!」と力強くお答えになったのだと思いました。

その患者様の「誤作動」を検査していると、「恐怖」に関連する無意識的な心の内容が関係していました。その内容は、ご自身の引退後のことでした。実際に会社では引き継ぎを行っているようですが、何らかの関わりを持っており、完全に会社を離れてはいない状態とのことでした。そのような現状で完全に会社から離れるとどうなるのかという漠然とした不安が関係しており、意識的には恐れていないつもりでも、無意識的に心のどこかで恐れがあるという状態でした。

この患者様はPCRTの施術の価値をよく理解してくださっており、これまでに複数の会社を創業された経緯があり、「挑戦」することの生きがいであり、大切にされていると感じられたので、上記のような深い会話ができたのだと思います。このような退職や引退に関係する「心の動き」や「無意識的な心の信号」が体調不良に関係することは、PCRTの臨床現場ではしばしば遭遇することです。

近代合理主義的な発想では、65歳後は定年退職して若い人を育成するという考え方や、経営者も後継者を育成するために敢えて身を引くという考え方があります。確かに会社を末長く維持していくために、人を機械部品のように故障する前に交換するという発想は合理的に思えますが、本当にそれで良いのでしょうか?

治療者として長年多くの方々の人生に触れていると、近代合理主義が何となく自然の調和、法則に反しているのではないかと感じるところがあります。人が働く気力もなく、ましてや嫌々働くのは組織にとって不健全ですが、まだまだ働く気力も充実して能力的にも十分な人たちが働くことは組織にとって健全なことであり、単純に年齢だけで退くという考え方には違和感があります。

もちろん、肉体的な衰えは自然なプロセスです。その衰えに逆らうことはできません。しかし、脳や知性に関しては肉体の衰えとイコールではないように感じます。20歳を過ぎるころには脳の発達が停止すると言われていますが、実際には脳は信号の塊であり、何億、何兆ともいわれるネットワークの集合体です。脳の使い方次第でそのネットワークは増え続けると言われており、ある部分の脳の体積も使用方法に応じて変化すると言われています。肉体的トレーニングをして筋肉や骨などを鍛えるように、脳をいかに使うかで人生を豊かにすることができるのです。

一般論的な「年齢神話」や「退職神話」に捉われることなく、何かに挑戦し続けて生命の炎を燃やし続けましょう。その炎を消すのは「天」であり、自ら消すことは不健全であり、病気を作り出す原因にもなるということを忘れないでください。

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