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本物の「美しさ」とは?

昨年、たまたま観たNHKのドキュメンタリー番組で、柔道家の古賀稔彦さんが紹介されていました。ガンのため53歳で亡くなられましたが、「平成の三四郎」と呼ばれ、鮮やかな背負い投げを得意として多く戦績を残されています。1992年のバルセロナオリンピック前の練習試合で左膝を負傷しながら、金メダルを獲得したことは伝説として語り継がれています。引退後も日本代表コーチや大学の総監督としてトップクラスの選手の育成に情熱を傾けてきました。そのような古賀さんの生き様がドキュメンタリーで紹介されている番組を観て、なぜか「美しい」と感じました。

ドキュメンタリーや映画を見て感動することは多々ありましたが、その人の生き様をみて「美しい」という言葉がはっきりと思い浮かぶことはありませんでした。なぜ、そう感じる様になったのかを自分なりに分析してみると、恐らく家族や周りの人たち、来院してくださる患者さんたちの行動を鑑みて、「努力」することの美しさを感じていたからだと思います。言い換えると、努力していない人を見ると、失礼ながら「美しくない」と感じ、自分の行動を振り返り、美しい生き方、美しい人生を送りたいと願うわけです。

柔道家の古賀さんに限らず、他のスポーツ選手のドキュメンタリーを観ても、優勝した時の栄光よりも、背後にある知られざる努力の積み重ねを知った時、その選手の生き様が美しく輝いて見えます。それは、例え「優勝」という栄光に達することができなかったとしても、高みを目指して、コツコツと積み上げた「努力」のプロセスがあれば、その人を美しく輝かせているように感じます。それは、スポーツの分野に限らず、どの分野でも言えることだと思います。数年前に観た何かのテレビ番組で、顔にシワがたくさんある高齢のお婆さんが畑仕事をしていて、インタビューに応え、明るく前向きに生きている姿をみても美しさを感じました。それは表面ではなく内面から湧き出る美しさです。

「美しく」、「カッコよく」見られたいと、多くの人が願っているのではないでしょうか。表面的に美しく、カッコよくしても、それが本物の「美しさ」なのか、などと考えるのは歳のせいでしょうか?若い頃は、そのように深く考えることもなく、表面的な美しさやカッコよさだけしか見えていなかったと思います。人はどんな境遇にあっても、「隠れた努力」を積み重ねることで、人として磨かれて、「本物の美しさ」を醸し出してくるのだと思います。また、その努力の「質」は、美しさの「質」に比例している様に感じます。何のための「努力」なのか。最初は自分のためだけの努力が、他者のためにも、となるとその努力の質も高くなり、美しさの質も高くなるのではないでしょうか。

コツコツ「努力」することが大切といっても、それを「継続」することはとても難しいことだと思います。時には、休みたい、怠けたい、憂さ晴らしをしたいなどと甘い誘惑が誰の心にもあるものです。肝心なのはその時にどう判断するか?無理をしないように、歳だから、明日のために休みを・・と自分に都合の良い言い訳をするのは簡単です。そこで、後退するのか、あるいは、踊り場で休むのか、それとも、小さな一歩を踏み出すのか?難しい判断ですが、「本物の美しさ」を身につけたいというプロセスのゴールがあれば、無理することなく自然に小さな一歩を踏み出しているのかもしれません。

今の努力は明日への美しさ、「本物の美しさ」を目指して、自分が自分に誇れる人生をコツコツと歩んでいきましょう。

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