アレクサ、看取って④ グラディウスを知らずに大人になるなんて
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この日、渋谷ヒカリエの34階で行われたイベントの正式名称は、
であった。
このフレーズのうち、一番だいじなのは「思い合う」の部分かと思う。
正しい知識を知ろう、人々に届けようとがんばるのはとても大事なことだ。でも、送り手と受け手の間に相互に思いを巡らせ合う関係がなければ、意味がない。
なんて。
他人のことを思ったところで、どこまでわかるものかな。
最終的にはわかんねぇと思うんだけどさ。
それでも、思い合おうとはしようぜ、と、少なくとも医療というフィールドではそれで行こうぜと、それくらいの軽い気持ちで付けたタイトル・・・・・・だったと思う。たしか。おそらく。誰かが。きっと。
ふと思い出した。かつて、今週末まで車のタイヤが2割引きで買えます! というチラシが強引にポストの中に突っ込まれていたことがある。前の週にスタッドレスタイヤを買い替えたばかりだった。情報は正しく、確実にぼくのところに届き、何の役にも立たず、おまけにぼくの精神に重大なダメージを与えた。知ってることを一方的に送り付けないでくれ。ほしけりゃほしいって言うよ。君んとこにはもう言わないと思うけれど・・・・・・。
これもまた、思い合うことをせずに伝えようと、一方的に与えようと、あるいは得ようととしすぎた結果、起こった不幸だったのではないかと思う。
わかってる。ぼくだってそういうことを、ずっとしてきた。
そもそも情報という文字列には情の字が入っている。報告の報より先に人情の情がある。ということは、情報を扱うぼくらは、
情を込めないと。
情を汲まないと。
情に沿わないと。
情を見せないと。
ね。
*
渋谷に「けいゆう先生」見参である。
山本健人。いろいろとほめられが発生するタイプの男だ。
彼をよく知るものは誰もが言う。解析力がパネェ。詰め将棋の手数が4ケタくらい行ってる。キングダムに出てたら表紙とれるレベルの軍師。
彼をよく知らないものはたいていこう言う。イケメンがチヤホヤされやがって。論文書きながら情報発信なんかしやがって。書籍売りまくるなんて許せない。
おわかりだろうか。絶賛もこき下ろしも、いずれも本質的には「ほめられ」なのである!
ならば苦労も多かろう。ツイッターよりも現実世界のほうが嫉妬はずしんと重い。彼の周りには常に黒炎が見える。「蛇王円札黒龍波」。ATOKはこの名称を把握していないようなので話題を先に進めるが、ぼくは実際に彼のことが憎くてたまらない人たちの噂・・・・・・を聞いたことがある。ぼくは彼をヒーローにしすぎてはいけないのかもしれないなとさえ思う。山本にこの上さらにかっこいい属性が増えたら、世の嫉妬は業火となって野山を焼き、Googleビルの文字はバグって入れ替わり、アンチはショックで病に伏せってしまう。すると結果的に病院が混む。医療費高騰を抑制するためにも、山本をあまりフィーチャーしすぎるのはよくない。世界のためには仕方が無い。決してぼく自身が彼に強い嫉妬を覚えているからこういうことを書いているわけではない。
山本は多くの「あだ名」の中に生きている。
京大卒イケメン外科医学術業績豊富若手研究者のホープイクメンSNS医療のカタチの大エース。
あだ名は人にあだをなす虚構だ。
他者によって好き勝手に組み上げられた外骨格の中の、肉体が貧弱であるとばれた瞬間、あたかも旧支配者の石像のように縄をかけられて、引っ張られて倒されて砕かれて持ち帰られておみやげに加工されて路上で売られてメルカリで転売されてしまうだろう。
そこで、山本は言う。
「医療情報発信は、片手間でやらないとだめなんです」
瞬間、会場に水が満ちる。すこし室温が下がる。それまでの興奮の余韻が天井で水滴となり、水面に落ちて音を立てる。
キョトン。キョトン。
山本は続けて言う。
「情報発信が得意な(普通の)医者が正しい情報を届ける、というだけでは不十分です。それでは信用してもらえない。情報の価値が低い。
そうじゃなくて、情報発信が得意な(学術業績がしっかりあって、日頃から患者に対して真摯な医療をほどこすのに忙しく、医業にとてつもない集中をしているから発信はつい片手間にならざるを得ない)医者が正しい情報を届ける――――これが理想です。
ここを目指さなければいけません」
なんてやつだ。山本は多くの人から向けられる賞賛や嫉妬やレッテルといった外骨格をはじき返すのではなく、鎧の中にある肉体を鍛えて血を通わせ、外骨格ごと自分にしてしまおうとしている。
そんなこと、可能なのか?
思わず問いかける。
山本もまた、大須賀と同じ顔をしていた。
すこし苦しげに見えた。
**
褒める問題。どう思う? 古賀さん・・・・・・。
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山本の講演。
はじめに取り組んだのは、紙媒体への投書だった。何度も何度も新聞に投稿を繰り返し、最終的には投稿欄の編集者に名前を覚えられるまでになった山本の、かつての文章もまた今と同じように、鋭い。しかし執筆依頼の声はまったくかからなかったという。やさしい医療情報を届けようと思っても発信する手段がなかなか手に入らない。
だから彼は自らサイトを立ち上げた。
SEO対策を学び、学ぶだけでなく実践した。自分が職能として執筆できる領域を見通し、医療関連のキーワードを組み合わせることで検索ヒット率が大きく変わることを体感した。
「そんなことはインターネットメディアの人間なら誰もがやっていることだよ。」
でも医療者にはそんな人はいなかったし、なにより、本職のインターネットメディアが医療情報関連の記事を扱う際にもそこまでの対策は打っていなかった。彼は鏑矢だったのだ。
・・・・・・もっとも、正確には、ひとつだけ、ゴリゴリにSEO対策を施して医療情報発信を試みたポータルサイトがあった。もう過去になってしまったWELQ。一時期はGoogleの上位表示を独占し、とんでもない数のページビューをたたき出した噂のサイトはしかし、発信している医療情報があまりにお粗末だったために、ある筋肉フェチによって膝に矢を受け、首を取られた。朽木誠一郎というみずからの肉体を実験台にしてダイエット記事を書いている明るく楽しい筋肉ダルマが書いた記事と医療業界の総攻撃によって、猛然と焼き尽くされてこの世から姿を消した。
そんな中、山本は、圧倒的な解析力と確かな臨床力で、「まともな医者が執筆しているWELQ」みたいな存在となり(無敵かよ)、事実上、医療系個人ブログの覇者となる。
しかしその後、Googleの検索表示改変により、彼のブログのページビューもまた伸び悩む。Googleは医療情報の検索上位を、国立がん研究センターや官公庁、大学などの公的機関が独占するように手を加えた。結果的に個人が書いたブログは、どれだけ情報の正確性が高くても、検索ではそう簡単に表示されなくなってしまった。
いち早くこの流れを察知した彼はすかさず次の手を打った。SNSに進出し、ブログ系メディアに丁寧な情報をストックしながら、世間が情報を求めるタイミングにあわせて、あるいは実際に情報を必要とする人に向けて、適宜SNSを用いて情報をフローさせるという戦略に、流れるように移行した。
「そんなことはインターネットメディアの人間なら誰もがやっていることだよ。」
でも医療者にはそんな人はいなかった。なにより、訴求力の高い記事を書けてSEO対策を学びSNSの運用もできる現役外科医という、血肉の通った強化外骨格みたいな人間は、山本のほか数人いるかいないかといったところだった。
彼は軍師としての才能があるのだと思う。戦場を俯瞰し、どこにどれだけの戦力を投入したらどんな結果が得られるのかを瞬時に見通す能力を持っている。つまりは彼もまたシステムとロジックに長けた人間なんだな――。
ぼくは、今日もまた山本に対し、安易なほめとレッテルを貼りまくった。頭の切れるイケメンを見て眼福だった、そうお茶を濁して思考を次に進めつつあった。しかし、ひとつの違和感につまずいた。
ちょっと待てよ。
なぜ山本は、SNSにおける医療情報を解析してその結果をブログに張り出し「みんなもやろうぜ。よろしく」で終わりにしなかったのだろう。
これほどシステムを熟知した山本ならば、ただでさえ多忙な毎日に、わざわざ個人でブログを書き続ける必要もない気がする。SEO対策も、記事の執筆自体も、有志を募集して一緒に戦った方がラクなはずである。
なぜ軍師みずから青竜刀を振り回して最前線で戦うのか?
大須賀も、山本も。
彼らは俯瞰できるだけの力を持っているのに、なぜか自分が俯瞰のポジションに留まることをしない。
目立ちたがり・・・・・・?
出たがり・・・・・・?
ビームの出せる軍師((c)三国無双)・・・・・・?
最後のはともかく(たぶんその通りだと思うし)、ぼくは、彼らが単に自己顕示欲のためだけに情報発信をしているようには見えなかった。
いや、ぼくが、彼らを仲間意識によって弁護しているとか、一緒に承認欲求を満たそうと桃園で誓い合った間柄であるとか、そういう理由からではない。
彼らのかけている手間があまりに膨大すぎると思うのだ。目立つにしたってもっとラクな方法がいくらでもある。彼らはどうみても限界間近のギリッギリ、M属性があれば軽く興奮するレベルの仕事量をこなしている。
***
ぼくはこの日、午後の対談セッションで、山本を次のように評した。
「医療者側がやるべきメソッド(方法論)は、基本的に、けいゆう先生のやり方で最適化されているように思います。彼がグラディウスのビックバイパーだとしたら、ぼくらはオプションになって、同じ方向を向いて同じ攻撃をすればいい。グラディウスのオプションの中には、ビックバイパーのあとを追随するものもあれば、鶴翼の陣みたいに配置を換えるものもありますよね。やり方はいろいろあると思いますけれど、戦略自体は、彼がすでに確立しているものを追いかけていけばいいと思います。」
我ながら完璧なたとえだと思ったのだが、会場の反応はこの日一番薄かった。なんだお前らグラディウスもやらずに大人になったのか?
©Konami Digital Entertainment
(画像提供: 海老沢かに @ebisawa_kani さん)
ぼくは山本をエースと評しながら、内心、不思議に思っていた。
なぜ彼はわざわざビックバイパーでいようとするのだろう。
なぜシステムを作ってラクをしようとしないのか?
ぼくの疑念に満ちた目線を知ってか知らずか、彼は終わりのあたりでこう、つぶやくように言った。
「発信する医師がいるということを世に示すこと自体も重要だと思います」
イベントの後には、さらにこのようにつぶやいている。
インタラクティブセッションで話したことと重なるけれど、情報発信においては、発信した情報そのものが人を救うというより、「熱心に情報発信している、あるいは発信したいと渇望している医師が多数存在する」という事実にこそ価値がある、と考えています。
SNSやウェブ、あるいはオフラインのイベントを通して繋がる関係において情報発信し続けることは、ある意味で「土壌を耕すこと」に似ています。
その土壌に作物を植え育てることは――それが「医療」なのですが――診察室の中で「医師ー患者(あるいは患者家族)」の関係性がなくては、なし得ないことです。
しかし、医療と長い間付き合っていかねばならない病気が増えている現代において、もし「不信」や「猜疑」によってすでに作物を育てるのに不向きな土壌になっていたとしたら、そこで農業を行うのに大変難渋するわけです。
したがって私は、情報発信とは「作物を育てる準備」であると考えています。
彼もまた、一次産業から三次産業までを見渡した上で、情報を身にまとった食材であろうとしている。
ぼくはだんだん、医療情報をとりまくシステムというものが、わからなくなってくる。
(2019.10.3 ④)
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