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生まれてから干支が一周回ったぐらいまでの話

自分は三兄弟の末っ子として長男からは9歳差、次男からは6歳差を付けダントツのビリで母親の股からスタートした。二人の兄は数年前から独立し、中学の後半ぐらいからはほぼ一人っ子のような扱いを受けていたが、彗星の如く現れたくせ毛の4000gは人を笑わせるのが得意であり、それが殺伐とした男三兄弟の末っ子の役目として完璧な立ち居振る舞いだったという。食っては寝て食っては寝てを繰り返し日々成長していく中で何処と無く素振りがおじさん臭く、中におじさんが入っているのではないかと言われることもあったらしい。自分の中での一番古い記憶が母親が洗濯物を畳む隣で再放送の西遊記(SMAPの香取慎吾が主演のバージョン)を見ている記憶であり、自分はそれが保育園に入る前の記憶だと思っていた。だが、よく調べてみると実際の記憶と放送時期が2年ほどズレており、やっぱ小さい頃の記憶って当てになんねえなと思ったりした。

そんなこんなで自分は年少さんになる頃、上二人と同じ、仏教系の保育園に預けられるようになった。実家からは少し離れており、バスで送り迎えして貰ったり、親の車に乗せてもらい爆音でQueenのJewelsというベストアルバムを流すか、とっとこハム太郎のOPテーマを流すかの車内でゆらゆらとしながら送ってもらったりしていた。そこではお昼寝タイムでエルマーの大冒険を聞き、お菓子タイムではいりこのおやつとビスコを貪り、自由時間では三輪車を奪い合うような正に生を実感するような日々を過ごしていた。また、仏教系であるが故に灌仏会(釈迦の誕生日)の時にはお釈迦様に甘酒をぶっかけたり、園長の実家が寺でその隣がデカ公園であったりしたためよく遊びに行ったことなど普通の保育園とは違い少しばかり特殊なところがある保育園であった。その時、自分は初めての友達としてしんのすけくんという子と出会った。初めての友達だからといって特に深い思い出があるかと言えばそこまでだが、ある日教育機関の順番の話になり、自分は小→中→大だと熱弁していたがしんのすけくんは知識があり小→中→高→大だと反論をし言い争いになるも自分が勝利した記憶、そして月日は流れ小学校3年生の時にとあるサッカー少年の交流会というような場で再会を果たしたぐらいの記憶しかない友達であった。その記憶しかないと言うと語弊があるかもしれないが20年生きているともう記憶の濃度もだいぶ薄まってしまうものであり、もっと色んなことがあったはずだったのだが忘れてしまうのである。ちなみにその頃の将来の夢はさかな屋さんである。

その後、卒園式の練習で座った際の正しい手の握り方と足の位置をスパルタ教育されたおかげで少しばかり小学校の入学式においてアドバンテージを取っていた自分は保育園とは異なり地元の小学校へと進学した。
僕の小学校時代というのは大きくわけて3つのキーワードに分けられると思う。1つは自意識過剰。2つ目はいじめられっ子。3つ目は好きでもないサッカー。この3つである程度自分の小学校生活は理解出来る故、  興味がなければここで読み終えて頂いても構わない。
まず、小学校の時の自分というのは今思えばとてつもなくませたクソガキであった。小一の担任の離任式で泣いてるみんなを見て一人、一緒に泣いてる自分自身の心豊かさに自己陶酔をするほど自分がどのように見られてるのかを気にしており、その時兄弟学級の6年生に付けられたコーンポタージュというあだ名もその一連の流れの一つであったと認識している。そうした「見てくれ」を気にする自分は低学年の頃からテレビっ子であった影響からか様々な雑学程度の知識について詳しくなっていた。そうしたところから「博士」という各学校1人は居るであろう大変貴重なあだ名を頂き、そうした博士らしさというのは当時の小学生からしたら鼻につく気持ち悪さだったのだろう。 そして自分は人より物知りであることの優越感というものに早くから浸っており、過剰なまでの自分という人間のクールさという自意識と早めの中二病としょうもなさを抱き「なんか嫌な奴」という人間性が少しずつ熟成されていった。人より成長の早かった自分は性教育も間に合わないスピードで少しずつ気持ち悪くなり、そうしたこの少年のキモさというのはいじめの対象として確固たる地位を築き上げたのであった。実際にいじめを受けていたのは小3から小5の途中ぐらいまでであり、当時は本当にいじめというものに悩んでいたと思う。学校に行きたくないというのは当たり前で皆が想像するいじめというのは大方コンプリートしており、子供ながらこれに打ち勝ったらこれからの人生向かうとこ敵無しだろうというメンタルで両親の支援や当時小3~4年を2年連続で担当してくれたM先生のバックアップを受けながら解決に向かっていった。そんな中、小4の9月頃、生まれてから住んでいたアパートから引越しをする事になりその際転校をするかどうか家族で話し合った事がある。その際、今ここでいじめという現状から逃げるのは嫌だという意志を伝え学区的には隣の小学校の地区なのに15分以上かけて小6まで通うようになった。ただ、その時の逃げるというのは違うという意思は少しばかり意地や見栄というのがあり、今考えるとなんであの時転校すると言わなかったのだろうか、言っていたら大学までの定期代がもう少し安くなっていた筈なのにと、たまに思い出して後悔したりしている。サッカーは上二人の兄が少年サッカーのチームに入っており、自分の父はそのチームの監督という環境であったことから保育園時代からサッカーというものに触れてはいたものの、さして興味がある訳でもなく、小学校に上がる際流れの中でそのチームに入ることとなった。生まれた時から大柄で食べる事と寝る事が大好きだった自分にとってこの当時から運動というものが滅法嫌いであり、何度親父に泣かされながらサッカーをしたことかと思い出す。ただ、サッカー自体には興味があり好きなスポーツであったため、本当に運動したくないし嫌いではあるが見る分には好きという小学生らしからぬ体たらくを見せるぽっちゃり少年であった。そのため、今思うとあの頃の自分に半強制的にもスポーツをやらせておいたことは自分として正解だったのではないだろうかと考える。もし、あの頃の自分が音楽とサッカーを選べる状態であったら間違いなく音楽を取っており、その世界線の自分は今頃、今より少し音楽に詳しいクソデブになっていたのではないかと考える。

というように、とりあえず2500字分で小学校時代までを書き起こしてみようと思いたったが意外と書ききれない事が沢山ある上に、もっと時系列で掘り下げたらもっと面白い話が沢山あるのだが、書き出すのにも少しばかりの体力が必要であり、今日のところはここまでにしたいと思う。本当に思い立ったこと順に書き上げているため、話が行ったり来たりする文章であることに深くお詫びしたい。とりあえず寝ます、あざした。

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