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京アニ容疑者を救った、医師の苦悩を想う

(*この記事を書きはじめる前に、京都アニメーション放火事件で亡くなられた世界の宝であったスタッフの皆様に心より哀悼の意を示し、今も心や体の傷に悩む被害者の皆様とご家族に、少しでも心が落ち着く日が来ることを心からお祈り申し上げます。)

目の前の患者を助けなくてはならない医師の信念とは

ニュースで、京都アニメーションの放火事件で多数の死傷者を出した容疑者が映し出された。ストレッチャーで運ばれ、退院した病院から警察署へ向かうその顔はやけどの瘢痕が生々しい。一般の医師である私は、その顔を見たとき、治療に向き合った医師たち、医療チームのことを想い、心が熱くなるのを感じた。

医師法19条には「診療に従事する医師は、診察治療の求めがあった場合には、正当な事由がなければ、これを拒んではならない」と定めている。この義務は、国家試験を授与された医師が国家に対して公法上の義務を負うもので、私法上患者に対して負う義務ではないと理解されている。しかし、その理解がどうであれ、毎日の救急の現場では、医師は、どんな患者も助ける気概を持って働く。その気概がなければ、無理難題を言う患者さんや、医療スタッフに酷い態度をとる患者さんに対しても、真摯に向き合い、対応することはできない。もう10年以上前だが、私が大学病院勤務時代に、睡眠薬を多量に欲しいと毎夜、救急外来を受診する患者さんがいた。説明の上、「希望には応じられない」と説明すると、その人は腕を振り上げ、大声を上げて暴言を吐いていた。救急外来には限らず、医師は、時には身の危険を感じることがあっても働かなくてはならない現場は、信念という心の柱がなくてはつとまらない。                           医師は人間である。時には、患者さんの言葉に傷つき、時には、治療が上手くいかずに、悩む。時には、                    「この治療に何の意味があるのだろうか。これでいいのだろうか。私は誰の役にたっているのだろうか」と、人知れず葛藤する。守秘義務がある医師としては、決して人に相談できない医師の心の葛藤である。それでも、なにかに意味を見つけ、信念にもとづいて進むしかない。

裁判を受けさせるまでに回復させた医療チーム

やけどは、致死率の高い外傷である。ニュースの画像を見るだけでも、京アニ放火事件容疑者の熱傷の程度は明らかに重症だった。顔面熱傷からは、気道熱傷(喉から気管、肺にかけてのやけど)もあったであろうし、人工呼吸器での治療も長かったはずだ。早期の死亡の確率は非常に高かったと容易に推測され、退院時に熱症状が残ったとしても、ここまで回復させたことは、奇跡といってよいだろう。熱傷の患者の容態は、日々刻々と変わり、本当に目が離せない。ここまでに至った医師たちの努力は尋常ではなく、本当に大変だったと思う。この治療に当たった医師たち、医療チームの方々の医療技術の高さが最高レベルだったことを言いたいのではない。それ以上に、医師として抱いた心の葛藤に対し、孤独に対処してきたことに、信念のもとに突き進んだことに、私は賞賛と感謝をあらわさずにはいられない。ここまで犯人を治療し、警察へ行けるまでに回復させ、そして裁判を受けさせるところまで頑張った医療チームに、医師のひとりとして、「悩みながらよく頑張ってくれた。ありがとう」といいたい

患者が、自分の人生に向き合えるために

広範囲の熱傷は、完全に症状が完治することは少ない。熱傷後によって失った皮膚によって、汗をかけず体温調整が難しく、皮膚が引きつれ、少なからず痛みが伴うことが多い。やけどの痛み、入院中に受けた医療スタッフからの優しさや努力が、これから容疑者が受ける裁判に際し、容疑者の心が精神的の痛みを感じられるように、たとえ奇跡的な確率であっても、微小の変化を与えたことを期待する。それが過剰な期待であることは、承知している。医師は一人の患者の人生そのものを決定したり、裁くことはできない。しかし今回、少なくとも、医師は、目の前の命を救った。さらに、命を救うだけでなく、患者を治療し退院させ、自分が招いた結果である人生に立ち向かわせることができた。医師として、力をつくしてくれたのではないだろうか。

京都アニメーションの被害者や家族の心の痛みを思うと、胸が詰まる。容疑者には、救ってもらった命を糧に、日本の法律のもとでしっかり裁判を受け、取り返しのつかない罪を、自分の人生をかけて償ってほしい。

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