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花の名前を忘れたあとにすること

昨日21時に奈良の山村を出て、6時前の今千葉行きの電車に乗っている。
年々深夜バスがしんどくなるというが、それは身体を調整、拡張していないからでは、と思う。心身の功夫の積み方のチェックとして、日本だと夜行バスは悪く無い。状態の悪い場所、状況でどれだけ休息を取れるのかというのは年齢を重ねると技術的な部分が多い気がする。


深夜バスはいいよね


深夜バスのお供として、CBDと骨伝導イヤフォンを2年前ほどから手に入れてから格段に次の朝の快適さがあがった。

いつもは3,000円近くで名古屋から東京まで深夜バスに乗っているが、今回は8,000円もかかった。休日一発目なのとか、ギリギリに取ったりしたからとかはありそうだが、新幹線とそう変わらない値段に驚いた。

それならば新幹線に乗るという選択肢を取る人が多いだろう。気持ちはわかる。乗っている時間が半分以下だし、PCやタブレットを使えるし、本も読める。

しかし、深夜バスではPCをカチャカチャしたり、スマホやタブレットを長時間見るという気分にはなりにくい。文字読んでると酔いやすいというのもあるし、単純に寝れるのならみんな寝たい。

なので、深夜バスに乗ることは、短い時間ではあるがデジタルデトックスの時間に変換しやすい。

今回バスの代金がいつもより高かったことで、僕は安いからという選択肢でバスを選んでいる訳では無いのだなと、前から思ってはいたが、改めて気づいた。

今、千葉に向かう電車のなかで、朝焼けを見ながら新木場を通過している。この光景は、朝一に名古屋から新幹線に乗るという選択肢では見ることができない。

街が起きる前に到着できる、というのが深夜バスのよさの一つである。特に東京や大阪など、人口が多い街であればそうであろう。

開店前のマクドで待つ眠そうな人たちや、清掃の人たち、がらんとした廊下。東京の建築やデザインをゆったりと見ながら歩くことができる。夜明け前、少しずつ鳴き出す時の自然の中の雰囲気と相似している。夜と朝の間の時間。呼吸においても、呼気と吸気の間の一瞬の間にある、静寂には永遠が広がっていると感じる時が稀にある。

この文章を書いてると、くるりの「グッドモーニング」という曲を思い出したので聴きながら続きを書こう


夜行バスは新宿へ向かう 眠気と共にあかりは消えて行く 予定より30分早く 冬の真夜中

グッドモーニング/くるり

くるりの「アンテナ」というアルバムは、僕が大学生の時によく聴いていた。一番回数を聞いたのは「図鑑」だった。スティック状で画面の付いていない、シャーペンの芯入れと同じサイズのiPod shuffleという音楽プレーヤーにどこからか手に入れたmp3をぶち込んで毎朝通学の時に聴いていた。

みんなが持つ大きなiPodと違って圧倒的なコンパクトさはもちろんあるのだが、曲を選ぶのは曲送りでしかできないというかなり縛りのある機能性だった。僕はその機械に、一曲ずつではなく、アルバムが一つのmp3となっているファイルを入れていた。

その時入れていて今も覚えているのは、Zombiesの「Oddesey and Oracle」、エレカシの「人間讃歌」って曲から始まるアルバム、そして図鑑。

その時には入ってなかったが、ヨーロッパ旅行に行く時にそのプレーヤーを持って行って、Jim O’roukeの「Eureka」を聴きながら気付かぬうちに死にかけたと言う話がある。

the deadly fright flight

確かパリからポーランドに向かう飛行機でのことだった。

年上の友人とヨーロッパに1ヶ月行っていて、その中での行程としてポーランドに一緒に行くというのがあった。それぞれ別の国に行ってまた別のところで落ち合う、というような自由な感じでやらせてくれる関係性の人だったのでとても良い旅だった。

その中で、メインはアウシュビッツに行くために飛行機に乗った。昼前後で、太陽の光が窓から暖かく差し込んでいた。離陸したのちに一眠りしようと、「Eureka」を聴きながらまどろんでいると、それはそれはなんとも気持ちがよく、天国みたいだなと思いながら睡眠の海へ静かに入水していった。
起きると着陸直前で、寝ぼけ眼でふよふよしていると、隣に座っていた友人が話しかけてきた。

「K、この飛行機落ちかけててんで」(セリフは適当に書いているので気にしないで欲しい。僕は記憶力が良く無い)

「えー!マジっすか!?」

と驚いていると、海外旅行に慣れている友人はこんな感じで話してくれた。
途中までいい感じで飛んでいた飛行機が乱気流のせいか、とても不安定な飛行になった(これは飛行機に乗る人なら特段珍しくないことだとわかってもらえると思う)。

そこまではその友人も何も思わなかったのだが、そこからの経過がちょっと普通の乱気流由来の不安定さとは違っていたらしい。

フライト前か前半に、友人は座席の前に日本人の2人組が乗っていることを知った。その二人はライターのような内容の話をしていたらしい。あの空港はどうだの、この空港はどうだのと、仕事で海外に行っている人特有の話し方。

飛行機がかなり不安定になった後起こったこととしては下記の3つ

  • スチュワーデスが慌て出した

  • 前の日本人たちも慌て出した

  • シートベルト着用などのランプが消えた

今聞いても結構やばかったのかもしれないとは思うが、いかんせん僕はその最中天国にいるような気分で寝ていたので知らない。友人の話ぶりからして嘘ではないとは思うが。

「なんで(そんな面白そうなことが起こってるのに)起こしてくれなかったんですか!」

と友人に言うと、こんな返答が



「もしも死ぬんだったら起こさないほうがいいかなと」



「いやいやいや、墜落まで寝てるって流石にないでしょ〜。墜落の数分前とかに目が覚めてしまったら心の準備もできないじゃないですか!」

みたいな話をしていた。膝に乗って寝ている猫を起こすのは悪いかなと、身動きの取れない優しい人みたいな感想は、今でも印象に残っている。

まあ確かに、横に誰かが寝てたらどの起こすのかというのは難しいなと、相手の立場になって考えてみると思う。

早すぎても、その後なんにもなかったら「なんだよこんなことで起こして」みたいに思われるかもしれないし、遅すぎると「えええ!堕ちるのこれ!!ええええ!!」と急に発狂するかもしれない。

あなたならどうしますか?
と雑に話を終わらせることにする。

3 忘れることについて

昔mixiをやっていたとき、日記を書く際、パラグラフというか話題を変える時に「3」という記号を使っていた。3という数字が好きだったのと、3という言葉が持つ「3」という感覚を、別の使い方で「3」を使うことによって消せるのでは無いかという実験だった。便利だったので結構長く使ったいたが、結果としては「3」それ自体がもつ「3」の感覚が消えることはなかった。先ほど述べた閑話休題としての「3」の機能が足された感じ。

それは今、神経心理学的に考えると当たり前のことではある。何かの概念に対するシナプスが形成されて、それに新たな意味が付与されたとして、以前のシナプス経路が相変わらず使われているのであれば、「3」のイメージは膨らめども、収縮することは無い。実験として、数字という抽象概念を使わずに生きるということをしてみたくはある。

数字の概念というと、とても調子がおかしいときに、数字の概念が無くなったことが一度ある。何を言っているのかわからないと思うが、そう説明するしか無いのだ。左右盲の人が左右の感覚をいつまでたっても掴めないように、小さな子供が数や時間の概念を理解しないように、僕もその時「数字の概念」を失ったのだ。怖くはなかったが、かなり面白い体験だった。
くるりの好きな歌上位な「春風」の中で、こんな歌詞がある。

花の名前をひとつ忘れて あなたを抱くのです

春風/くるり

何回聞いてもかなり印象的な一節だと、多分死ぬまで思ってそうな気はする。この一節の前には始め

花の名前をひとつ覚えて あなたに教えるんです

春風/くるり

という一節があり、それの変遷するリフレインである。

あなたというのを、昔の僕はなんとなく恋人のことだと思っていたが、子供として想定してもしっくりくるな。

今想像したのは、小さい子供に花の名前を教えている今の自分と、老いてボケた後にその子を抱きしめるという、そんな風景。花の名前を忘れたとて、あなたを抱きしめることは忘れない。対象とか自我とかそんなレベルの話を超えた世界の愛を僕はこの歌詞から感じているのだろう。


忘れると言えば、ギャスパーノエの新作のモチーフが認知症らしい。いつ日本で上映されるんだろ。ギャスパーノエ的なゲゲっとなる感じか、はたまたリンチの「ストレイトストーリー」みたいな意外性のある作風なのか。

「幕張」の作者の「喧嘩商売」シリーズが大好きで、その中の前方性健忘症のシラット使いが、充実した戦いのなかで言う「忘れたくねえよ」というセリフがある。

GEZANの「8月のメフィストと」歌では、忘れることについてこんな一節がある。

忘れるんだろう ふるえる この6弦を
忘れていいんだよ 今だけみつめていて

8月のメフィストと/GEZAN

覚える技術と同じくらい、忘れることに対応する技術も人生では必要だ。

愛する人が死んだら、よく顔がだんだんと思い出せなくなるという。それは悲しいことのように感じる。でももっと強烈な感覚、その人の匂いだったり、その人へ向かった感情というのは、きっとボケたとしても残る。

憎しみも苦しみも情熱も、人間は忘れるようにできている。忘れ去られた後に残りやすいものは、恐怖と愛だ。トラウマや認知のフレーミングミスで恐怖が身体に刻み込まれすぎている割合が多いと、世界を愛する余白が心に残らない。

大事なことは忘れたりしないように
どこかで拾った紙切れにかいておこう

太陽のブルース/くるり

何か大事なものを忘れることを選択するとしたら、何を選んで何を残すのだろう。

昨日読んでた鶴田謙二の「おもいでエマノン」では、主人公のエマノンが、生命の始まりから人類が生まれて現代まで、すべての記憶を持った存在として描かれている。不老不死というわけではなく、生殖して、娘を産むと前のエマノンの記憶がすべて子に引き継がれ、元のエマノンは空っぽになってしまう。

映画「メメント」の主人公も、世界が平和で安全であればそもそもタトゥーを入れる必要は無いんだろうな。

瞑想の後に残るもの

瞑想は、記憶にこびりついた感情の垢を落とすのに役立つ。具体的には、瞑想をしていると想起される記憶に結びついた感情に捉われにくくなる。すると、悪感情は相手をされないと消えていく。痛みや不快感、不安感も同じであり、瞑想を続けていくことにより、それらが永遠に続くことではないということを知り、影響されにくくな。

疼痛治療に使われるというのはそういった理由だと感じる。どんな感情、感覚であれいつかは消えていくというのを瞑想を通して感じると、それは諸行無常を身体でまなぶことになるのです。

瞑想を続けていると、残るのは愛と慈悲の感情で、それらは消えることがない。愛がもっとも強いパワーだというのと同じように、慈悲は弱い/穏やかなパワーであるけれども、愛よりさらに強いと僕は考える。

愛のパワーは強いので、愛着や執着といったものに変化してしまうと、何かを縛ることもあり得る。

その点、慈悲は、ただただ、あらゆる存在をいつくしむのみ。

最後に、知った当初はなんだこれと思っていたが、いろいろなタイミングでふと試してみるとものすごい強い「慈悲の瞑想」というものがある。

読むだけでもいいし、可能なら目を閉じて心の中で唱えてみるとおもしろい。

ググってみたら僕のやってるやつよりもうちょい精緻な言葉使いで、内容もちょっと変わってておもしろい。

*2016年秋より、これまで「人々」としていた言葉を「生命」に置き換えて慈悲の瞑想をいたします。

日本テーラワーダ仏教協会HPより引用

私は幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように
私の願いごとが叶えられますように
私に悟りの光が現れますように
私は幸せでありますように(3回)


私の親しい生命が幸せでありますように
私の親しい生命の悩み苦しみがなくなりますように
私の親しい生命の願いごとが叶えられますように
私の親しい生命に悟りの光が現れますように
私の親しい生命が幸せでありますように(3回)


生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように
生きとし生けるものに悟りの光が現れますように
生きとし生けるものが幸せでありますように(3回)

日本テーラワーダ仏教協会HPより引用


それではみなさん、ファンタスティックな一日を。

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