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私がクリスチャンになった訳[第6章:シスターUとの出逢い]

   シスターUは約3ヶ月間週に一度のペースで一対一で聖書を教えてくださった。福音書の中で一番古くに書かれたものであるからという理由から、シスターが新約聖書の中から選ばれたのはマルコによる福音書だった。この書を中心に読みながら、時々、旧約聖書の大事な箇所も紹介してくださり、ゆっくり静かに聖書勉強会の時が流れていった。シスターが教えてくださった聖書の読み方は、レクチオ・ディヴィナ(霊的読書)であった。この方法は、ゆっくり聖書の一語一語を味わい、黙想と祈りと観想を通じて、神に出逢っていく聖書の読み方である。この静かで贅沢で神聖な時の中で、私はイエスの存在を恐ろしいほど、肌ではっきりと感じ、震えるような思いがしていた。シスターとの聖書勉強会で多くの御言葉に触れ、私の心は癒され、主に一歩一歩近づいていくことができたように感じていたが、特に下記の二つの箇所が今でも私の心に深く刻まれている。

一つ目はマルコによる福音書一章16-20節。

イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。 二人はすぐに網を捨てて従った。 また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、 すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。
(マルコによる福音書‬ ‭1‬:‭16‬-‭20‬)

   二人でゆっくり読み終えた後分かち合いを始め、シスターが話された。「シモンとアンデレは、漁師として普通の生活をしていたのですね。でも一生懸命働いて生きていた。そしてそこを通りかかったイエス様が、その様子を見て彼らを呼ばれた。このようにきっと一生懸命生きていると神様に出逢えるのだと思います」私は、このシスターの言葉にその時大変感動した。失敗だらけ、でこぼこ道の人生を歩んできた私だったけれど、いつも何かを求め、前を見て進んできた。探しても求めてもすぐには見つからない何かをいつも追いかけて生きてきた人生だった。そして、こんな私が本当の神様に、今、この「時」にやっと見つけていただいたのだった。「本当の神様」これは、私が祈りの時に、当時使っていた神の呼び方である。新宗教もキリスト教も全てを超えたところにある本物の神様という意味で神を呼びかける際使っていた。そして、この「本当の神様」と出逢う「場所」についてシスターは下記の聖書を引用し教えてくださった。

それゆえ、わたしは彼女をいざなって
荒れ野に導き、その心に語りかけよう。
そのところで、わたしはぶどう園を与え
アコル(苦悩)の谷を希望の門として与える。
そこで、彼女はわたしにこたえる。
おとめであったとき
エジプトの地から上ってきた日のように。
(ホセア書2:16-17)

シスターは仰った。「神様と出逢う場所は荒野なのですね。荒野に行かなければ神様の言葉が人間の心に響かないのでしょう」この彼女の言葉に目から鱗が出るような思いに駆られた。私も正しく本当の神様に出逢ったのは荒野であった。荒野へ行かなければ十字架の意味を理解することはできなかった。私の愚かな生き方の選択のために罪の只中にいる苦悩がこの預言者ホセアの不義の妻ゴメルの苦しみと重なった。私もゴメルのように、様々な出逢いがあり、恋愛や虚しい夢を追いかけてきた。あまり好きではなかったけれど、最初の恋人のところへ戻れば、楽に生きれるかもしれないと思ったりもした。でも道はどんどん妨げられた。その苦難な薔薇の道のりの中で全てを支配する神に出会った。その方しか私をお救いになることができない。もう降参します、あなたに従いますとイエスを受け入れた。荒野は苦しい。でも荒野に来てよかった。本当の神様と会えたから。
  私は床に着く前に毎夜、二つのことを思い返すようにしている。今日私は一生懸命生きただろうか。神様はそんな私を見つけて下さっただろうか。今日の荒野は何だったか。その荒野より私は何を学ぶことができるか。就寝前この二つの問いかけを行い、「だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう」(マタイによる福音書‬ ‭6‬:‭34‬)という御言葉に癒やされ励まされ明日への活力を頂くために感謝のうちに眠りにつくことを心がけている。
  シスターUが私に教えて下さったことは、他にも書ききれないほどたくさんあるが、敢えて書き留めておくならば、それは三つある。まず一つ目。罪人としての生き方。シスターが口癖のように仰っていた二つの言葉がある。「ここは天国ではないから」「弱さと限界の中で」。人間は弱くても良い、この世で真の幸福は得られないという考え方は、新宗教で教えられた自分の心を自分で直し、前生の因縁を切り、この世で運命を変え、陽気ぐらしの世界を実現するという教えとは大分違う。私は自分が罪人であるという自覚をし、新宗教で教えられたような陽気ぐらしの世界実現のために親神の用木(ようぼく)として生きなくて良いのだと思った時、本当に心から安堵したのだ。
   二つ目は神との関わりである。シスターは一度大病をされたが、その時、イエス様に抱きしめられた思いがし、一番大切なことを悟ったという。それは、一人のクリスチャンとして、いかに神と共にあるかということが信仰の真髄であって、それを悟った際、自分がいかに良い修道女として尊敬されるべきかといった世俗的な願望を持って生きてきたかということに気付かされ反省したという。そういったシスターの信仰のあり方が他宗教との関わり方に反映されているのだと思う。シスターは仰ってくださった。「お爺さま、お婆さまから受け継いだ信仰はあなたの心の糧、とても大事なものですね」この彼女の言葉により、私はそれまで信仰してきた新宗教の教え、言わば私自身を否定されなかったように感じ、これが励みとなり、洗礼を受けようという気持ちになれた。こういった他宗教に対するカトリック教会の寛容さは、プロテスタント教会では一般的に見られないもので、やはり私は神の導きあって、シスターUやカトリック教会に出会ったのだと思う。
   そしてもう一つ。シスターが教えてくださった聖書の箇所で私の心の中に深く刻まれているもの。「恐れるな。わたしがついている。 取り乱すな。わたしはあなたの神だ。 わたしはあなたを力づけ、あなたを助け、 勝利の右の手でしっかり支える」(イザヤ書‬ ‭41‬:‭10‬ ‭)シスターは、イエス様が登場される新約聖書も素晴らしいけれど、こういった旧約の人を厳しく戒め励まされるような唯一神ならではの力強い御言葉も大好きだと言っておられた。苦しい時、この御言葉を心の中で唱え何事も取り組むようにしているとシスターに倣い、困難に出会う時私も「恐れるな。。。取り乱すな」とこの御言葉を呪文のように心の中で唱えるようにしている。
  80代で未だご健在で伝道、修道生活を送っておられるシスターU。私の母と同い年で、反面教師としか思えない実母をモラル的にも尊敬しきれない私にとって、シスターUのイメージは碧い海の彼方にある夜空に輝く星に向かって祈る聖女というものである。彼女は大学時代に洗礼を受けたが、まだイエス様を知らない時、星に祈り続けていたという。そして初めて聖書を開いた時、日本海に面する故郷に生まれたシスターは、目の前に子供の時見ていた海の水面が瞬く間に広がっていくような思いに駆られれたという。そんなシスターは、私の心の中でいつまでも代母として生き、支え、導いてくださっていることを日々感じる。
  シスターとの聖書勉強会を続ける日々、受洗も時間の問題だろうと思っていた。しかし、やはり30年近く信じていた新宗教を離れることは容易にはできず、洗礼を受けるまで、その後約5年を要することとなる。(続く)


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