LGBTQの夫に寄り添って生きるということは
最近不思議な夢を見た。日曜日の日中珍しく赤ちゃんと夫3人で4時間もぐっすり昼寝をしてしまった時に見た夢。私たちは親子3人で南国にバケーションに来ている。高級ホテルの前の南国風の屋根付きのソファーに夫と二人で向かい合って座っていて子供は走り回るくらい大きくなって他の客の子供たちと遊んでいる。ここにバケーションに来ている人たちは様々な国から来ている人たちで家族や友達などの4-5人のグループで行動している人たちが多い。外から見た限りでは皆幸せそうに見えている。私の夫は中国系東南アジア人で小柄でハンサムであるが、この夢では男らしい体格の良い南米系の映画俳優のような男性になっている。どうもその時の私はその人が夫であると気づいておらず、私はその人に自分の結婚生活の悩みを伝え、彼は私の口から出る言葉の一つ一つを温かく受け止めながらセラピストのように聞いてくれているのである。この結婚生活では色々あったけれど、夫にはお世話になったし、総合的に見ると良い結婚生活であったと思うし、今後もそうであると思うので夫には感謝したい。ただやはり性生活の欠如した結婚生活は辛かったのですと私は締めくくっている。そう口で伝え終えたところで心の中で、やはりこのLGBTQの夫と添い遂げるという難しいタスクに面する際、私を癒し助けてくれるのはユングの分析心理学とクリスチャンとしての信仰以外にはないのであろうと思っているところで目が覚めた。
東南アジアの華僑で家業を営む伝統的一家の長男に生まれた夫は、その柵から解放されたい思いもあって外国人である私と結婚することを決意し、一文なしで家を出た。その後夫が一から立ち上げた事業を私は全面的に支援し、彼から経済的援助はほとんど受けず、性生活もなく、周囲から見れば何のための結婚生活なのかと思われたかもしれないが、彼から受けた精神的支えは計り知れないものがあり、そのために心も身体も弱い私が自分のキャリア人生をしっかり歩むことができ、奇跡的に50過ぎて待望の赤ちゃんにも恵まれ、結果的にはこれまで幸せな家庭生活を送ることができたと思っている。別れたいと思った時も何度もあったが、ベストフレンドを失うことは私にはどうしてもできなかったのでここまで来てしまったという感じである。
彼との関係が苦しい時、お酒に頼ったり、キャリアを築くことに焦点を当てたり、気分転換に一人旅に出たり心理療法を受けたり、カリスマ的キリスト教に嵌り狂信的に彼が異性愛になるようにと祈ってみたり等々色々なことをしてきた。そんな中で、究極的に一番自分を救ってくれたのはやはり純真な信仰だと思う。私はカトリック神父ファーザーマイクのファンであるが、彼が性生活のない結婚生活はやはり理想的ではないとYouTubeで話しているのを聞いて、かえって慰められた。私もカトリック信者だが、神父様お墨付きの至難に自ら取り組んでいるのだと思うと自分を誉めてあげられる気持ちとなると同時に、ここにはやはり私の決意が伴っていることに気づく。夫がLGBTQであることは結婚してから知った。何度も離婚したいと思ったが、踏み切れなかったのはベストフレンドを失いたくないという気持ちと同時に教会で誓った結婚であったために添い遂げればならぬという決意が根底にあるためと思う。その決意は当時の一回だけでなく、毎日日々行っている決意である。朝目覚めて今日も神に奉仕していくことができますようにと祈る。LGBTQの夫に今日も仕えようという新たな決意を私は日々行なっている。そして神様が私にくださった賜物。それはユング派志向心理士としてのスキル。これを用いて夫との関係を平穏に保っていける。ユングが私に教えてくれたこと。それは全てを象徴と理解することを極めること。父、母、姉、夫等々の家族という名前はあくまでも名前に過ぎず、その人自身を表すものではないと思っている。夫を「夫」と思わず、「夫」という名を持って私の前に現れこの人を通し神が私に何かを教えてくださっているのだと思うと随分心が楽になる。今思えば、あの夢に出てきた南米風のセラピストのような男性はまるで私の理想とするような男性像だが、私の「アニマス」(内なる男性像)なのかもしれない。だから現実の世界の中では一緒になれない。しかし魂の奥底に生きている大事な存在なのかもしれないと思う。
LGBTQの夫と添い遂げるということ、それは私にとって決意である。この結婚が聖的なものであり、神から与えられた使命の一つと思っている限り、やはりこれを全うしたい。そしてこれからも日々考え続けていきたい。LGBTQの配偶者を持つ異性愛者の苦悩の意味を一人のクリスチャンとして、心理士として。