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隠し子の叫び 半世紀後の父との再会物語 #3 大学生時代

   私が大学生になる頃は、バブル全盛期で母の店も非常に景気が良く、私は地元を遠く離れた私立大学へ通わせてもらうことができた。その頃祖父は他界し3年ほど過ぎていたが長寿を全うした祖母は健在であった。母は私が大学へ行くことは経済的余裕があってもあまり良いことではないと思っており「女は短大くらいでいいのに」などと口にしていた。だが、私は将来、祖母のような新宗教の布教師をする傍ら英語の教師になりたいという夢を抱いていたので、どうしても新宗教の本部がある地域の大学に進学し好きな英語を専攻したいと考えていた。英語科を選んだ時、母が「あいつも勉強や英語が好きで就職してから夜間の大学に入り直し英語を勉強してたから、やっぱり親子だから似てるんだね。嫌だね」と笑いながら言ったので、普段会話に出ない貴重な父の情報を聞けて嬉しく、もっと聞き出したいと思い尋ねると「あんな男に会いたいのか?」と言って大声で笑われ、それ以上聞けなくなってしまった。ただ母はその時、姉の結婚式や二人の娘の節目がある際、私たちの写真を共通の友人を通し送っていると言っていたので、母も案外優しいところがあるのだなあと心の中で思っていた。
   花の大学生時代であるはずなのに、当時、私は鬱病のような状態になっていた。寝ても寝ても眠くて仕方がなく、いつもなんとも言えない虚無感があった。しかし、当時はカウンセリングは今ほど普及していなかったし、何よりも新宗教の信仰者として、心の問題を信仰の外で解決しようとするのは良くないことと思い、臨床心理的支援は受けず、心の中で自分の世界や価値観を築き上げていくことに一生懸命だった。「父に棄てられた私だけど前を向いて生きていこう。与えられた教育に感謝し、社会的弱者を助ける人となろう。夫に棄てられた女性が水商売以外に生きる道がないと母のように思わなくても済むようなシングルマザーたちが生きやすい社会を築き上げることに貢献しよう」そんなことをいつも考えていた。その反面、どこかで生きていると聞く父のことをやはり知りたいという気持ちを抑えることができずにいた。
  ある日、大学の寮に突然毛皮のコートの贈り物が届き、差出人がデパート名だったので、きっと父が私にプレゼントしてくれたのだと思い、喜んで母に電話したことがあった。「毛皮が届いたよ!」と母に伝えると、「あ、それ私が送ったの」と母は言った。私は心の中で一気に寂しくなり、「あ、そうなんだ。名前が書いてなかったからお父さんが送ってくれたのかと思ったの」と言ったら、母が電話越しで申し訳なさそうな声を漏らしたのに気づき、私はその時少し不思議に思った。その後、自由が利く大学時代の今こそ、父を探し始めるチャンスだと思い、大学の先生のアドバイスを受けながら父を探し始めようとしたことがあった。しかし、捜索をしようと思えば思うほど、祖母の「悪い人だから探してはいけない」という呪文が思い出され罪悪感に苛まれたし、何よりも、探し当てて期待を裏切られ落胆してしまうような父であればそれも寂しいだろうと思い、心の中に理想のお父さんを抱きながら生きていこうとある日決意をしたことを今でも鮮明に覚えている。その日、私のアルバムの中にあったたった一枚の父の写真を剥がし、特別の宝箱に大切に仕舞い、その箱を抱きしめた。今思えば、あの時から、いや、50年前に父が家を離れた時から、自分ですら気づいていない時もあったかもしれないけれど、ずっと父を内的世界の中に抱き、心の中の父性を探す長い旅は始まっていたのだろうと思う。
  大学生の時、一番苦痛だったのは長期休暇で実家に戻り、母のスナックを手伝うことだった。酔っ払いのおじさんたちに体を触られたり、カラオケのアダルト動画を見ながらデュエットの相手をしなければならなかった。私は夫に棄てられた惨めなシングルマザーの娘なのに大学に行かせてもらっているのだから、これくらいのことは我慢しなければいけないのだろうと思っていた。スナックは不倫相手と落ち合う愛人たちの場所になっていたり、母自身の道徳観にも納得できないことがあったため、そのような世界で生きる母をいくら私を懸命に育ててくれているシングルマザーであっても、心より尊敬し労ることができなかった。本当に母にはこの仕事しか生きる術がなかったのかといつも考えていた。
  姉と母はタバコの煙を吹かしながらブランド物の衣類や宝石や美味しい食べ物の話をよくしていたが、私はその二人の中に入ることができず、いつも一人で考えていた。私の父は何故私を棄てたのだろうか。少ししかない父との思い出は良いものばかりだが、何故父は突然「悪い人」になったのか。母のように水商売しか道がないと考えるシングルマザーのような社会的弱者が生まれない日本社会を作り上げるにはどうしたら良いのか。私はいつも人生の意味や生きる哲学について考えており、そんな私を見て母は考え過ぎでカッコつけているだけだと言っいた。なぜ、姉のように何も考えず、楽しく普通に生きれないのかとよく私に尋ねた。
  母はよく私に辛く当たった後、反省し、翌日に謝罪の言葉の代わりに高価な贈り物をしてきた。私は母から物をもらう度に心が虚しくなっていった。私が欲しいものはそんなものではなかった。ブランド物の洋服など着れなくてもいい。美味しいものがお腹いっぱい食べられてなくてもいい。知的で穏やかな父がいて優しい朗らかな母がいて、皆で慎ましく分け合いながら食事をし、一家団欒の会話を楽しむ。そんな親戚の家のような普通の家族が私も欲しかったのだ。しかし、それを母は私に与えることができない。だからこそ物やお金を与えてくれるというのは論理では理解できていたのだが、私の心は受け入れることができず、軽鬱状態が続いていたのだと思う。
  恋愛はうまくいかないことが多かった。それは多分、出逢う男性一人一人に理想的父親像を投影していたからだと思う。「この人も、私の父が私を棄てたように、きっと私を棄てるのだろう。そうされないように私の全てを捧げよう。そうすれば、この人は私を見捨てないかもしれない」といった感情を関係を持った男性たちに常に抱いていた。このような私の感情は相手の男性にとって大変重かったために、良好な恋愛関係を築くことができなかった。母は、恋愛でうまくいかないのは、私の顔が父親に似て醜いからであり、幸せな結婚をするためには美容整形手術をすべきだと言い、お金ならいっぱいあるからそうしなさいと強要され、私がそれは私のポリシーに絶対的に反すると断ると「こんなにあなたのことを思って懸命に働き、良いことを言ってるのに」と憤慨され、機嫌を損なわれたことがある。こういった母とのやり取りが重なり、私はいつしかフェミニストとなっていった。「女であるが前に人間でありたい!」母のような美人ではない自分だからこそ、身なりに気を配るのではなく、心を磨き、学問を極め、精神性を高める道を選ぼうと私は思うようになったのだ。(続く)

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