読書の醍醐味
この記事は、16年前の自分へのツッコミというスタイルで書いています。
読書の醍醐味とは、いったいどのようなものだろうか。
いろいろな意見があると思うが、最近、わたしが感じるのは、第一に「手段としての読書」である。それは、本に書いてあることを完全に理解することを目的とするのではなく、すでに自分の頭の中に、ある程度、蓄積されている知識やアイデアの引き出しを整理整頓してくれるための手段にすることである。
別の言い方をすれば、バラバラに点在している知識や経験が、「手段としての読書」によって、線になり面になり、そして立体化・構造化してゆく。中途半端なかたちで存在している断片的概念や取るに足らない知識などが、「手段としての読書」が触媒となって化学反応を起こして、これらが体系化されていくという醍醐味がある。
第二は「反面教師としての読書」である。それは、駄文や悪文を読むときに得られる違和感が、自分の頭の中で漂流している概念を、より明確なものに近づけてくれることである。なんとなく考えている作業仮説やヒラメキが、自分と正反対であるような考え方と照らし合わされることによって、その輪郭が浮き彫りになってくる。
このような醍醐味は、読書に限らないのかもしれない。テレビのドキュメンタリー番組や講演会からも得られる可能性がある。しかし、読書でこのような醍醐味に出合うとき、読んでいた本にしおりをはさんで、脳のたんすの整理整頓や、別の情報にワープするための時間を十分に確保できる。
もちろん、芸術性があり完成度の高い本を読むときは、日本語の美しさを堪能して、目的としての読書になることもある。その本に没頭して酔いしれる。これはまた別の快感である。しかし、「手段としての読書」や「反面教師としての読書」も必要である。問題があるとすれば、それは読み終わるまでに時間がかかり過ぎてしまうことである。
このエッセイは、2007年7月25日、地方紙のコラムのために書きました。
デジタル化が進んだ昨今、私自身、電子書籍を購入することが圧倒的に多くなりました。頭を整理するための手段は、読書だけでなくなりました。例えば、国内外を超えた他者とのチャット、専門的トピックを扱う動画、本質が詰め込まれたショート動画等も手段にしています。ここ数ヶ月はChatGPTもその手段になっています。
デジタルコンテンツと比べて、アナログ書籍のインプットの醍醐味は何でしょうか。先日久しぶりに紙の書籍に触れました。そのときに気づいたのは、物質感でした。本の重さ、紙の匂い、ページをめくる音、装丁デザイン。
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