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衝動としての移動

先日、隣町で開催されていた展覧会に行った。その周辺が昔住んでいたところだったので軽く散歩をしていた。歩いていると、不思議なもので、忘れていたその当時の記憶や感覚が思い出されるようだった。

自分でも不思議なのだが、衝動的に遠くに行ってしまうことがある。ということを思い出した。


たぶんその最初の記憶は、中学のときだ。
通っていた学習塾で数学をやっているときに大学生の講師に鼻で笑われて、すごく嫌な気持ちになった。

塾の終わりに、泣きべそをかきながらヤケになって帰り道とは反対の方向にずんずん歩いた。
嫌味な大学生に面と向かって怒ることもできず、ただ悲しくなることしかできない自分が悔しかった。何かに反抗したくなったのだと思う。

地元でもない、知らない町の夜。気づいたら道に敷かれていた煉瓦が途切れていて、辺りも真っ暗になっていた。
そんなに遠くまで行ったわけではないが、当時の自分は夜に知らない道を歩くことはものすごくいけないことだと思っていた。何より怖い。
自分のヒステリーよりも罪悪感が勝って、涙も引いた。来た道を引き返して家に帰った。


その次は、朝だ。
中高では寝坊してよく遅刻していたが、それとは別で、通学で利用するJR線が遅延して朝礼に間に合わないこともしばしばあった。たしかその日の朝は電車が遅れてたのだと思う。

なぜそうしたのか今では思い出せないが、学校の最寄駅のひとつ手前で降りて、一駅分ゆっくり歩いて登校したことがある。無論大遅刻である。

朝9時の住宅街は静かで、ゆったりとした時間が流れている。知らない住宅街を迷路を進むように歩いた。曲がった先が行き止まりだったり、思わぬ方向に行ってしまったり。
家々の合間から虹を見た。ひとりで、おお〜虹だ、とつぶやいた。

ちょっとした冒険のようなものだ。
身近に非日常感を味わえるから、今でも知らない住宅街を歩くのが好きなのだ。これがそのはじめの体験だったのだと思う。


一番遠くに行ったのは、高校のときの、秋だったと思う。
部活の朝練に間に合わなくて、全部が嫌になった。

朝礼には間に合う時間だったので、いつも通り新快速に乗り、サラリーマンの隣に座った。
私の遅刻は珍しいことではなかったはずだけど、恥ずかしいとか申し訳ないとか情けないとかの気持ちでいっぱいになっていた。
LINEのグループで、「遅れるごめん」と打っていたら涙が流れてきた。

降りるべき駅に着いても知らんぷりをした。

きっと、秀才で完璧な主人公が大学受験当日に果ての駅まで行って行方不明になってしまうという漫画に影響されていたのだと思う。

誰にも何も言わずに、うんと遠くまで行ってしまったらどうなるんだろう。
泣いてぼーッとする頭で、もうどうにでもなれと思った。

泣き疲れて寝て、気づいたら3つ隣の県にいた。

聞いたことのない駅で降りた。ホームはひとけがなかったが、駅員の姿を見て学校に通報されたらどうしようとビクビクしていた。
周りには田んぼが広がっていて、何もない。空がとても広かった。ホームの青いベンチに座る。ひとりで遠くまできてしまったという怖さとワクワクが、悲しさとかやるせなさを吹き飛ばした。

結局、反対のホームに来た電車に乗って帰り、登校した。
職員室に着いたころには三限目が終わっていた。担任には心配されたが、友人たちは意外と普通だった。
その日の部活には行かなかった。友だちがくれたGABAのチョコレートをたべながら、ひとりで一駅分歩いて帰った。チョコの甘さとその子の優しさが染みた。

帰ると家には誰もいなかった。薄暗いリビングでアマゾンプライムの秒速5センチメートルを見た。好きな人に会うという目的をもって電車を乗り継いでいく主人公を見て、衝動で遠くまで行ってしまう自分ってなんだろうと思った。

(文・写真 ひものみた)

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