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見られるための有用性より書くことの無用性が好きな話

読んだ本の感想をnoteに書きませんか?とnoteのシステムに勧められたけれど、書きたくないので書かない。


ネット上にものを書く人は飛躍的に増えた。1990年代終盤や2000年代初頭あたりからWebサイトに何かを書く人はいたけど、その頃のプラットフォームはWebサイトというかホームページで、人が、仲間内だけではない人が、見ているのだか見ていないのだかわからない中で誰かに見て欲しいがために書く、なんて行為は、同好の士以外には正直大っぴらにはしたくないことだった。少なくとも、日陰者の群れとして扱われるし、事実そうだったので、日向者の中でも陰性の加虐性を持ち合わせ日陰者を嘲笑するその声の残照で自らの日向の輝きを増そうと企む輩に格好の餌を与えてしまうことになるから、押し黙りながらテレホーダイタイムに合わせてインターネット上に出没し、誰ぞいないかしらとICQを立ち上げ、日陰のWebサイトにその日あったことやない事を書いてアップし、日陰のWebサイトからのリンクを辿って似たような日陰者の書く文章をにやにやしながら読む、その間にもICQで今はもう憶えていないテキスト会話なんかをする。それが2000年代初頭あたりまでの日陰の暮らしであった。その局地的なムーブメントはごく限られた界隈でテキストサイトと呼ばれていたかもしれない。


そこにブログがやってきた。インターネット上に何かを書くことのハードルは下がった。もちろん、先ほど書いた仄暗いインターネット生活は日陰者の視点による日陰史観であるため、90年代だろうと00年代だろうと、陽だまりのようなほんわかとしたホームページだってあったのだが、日陰史観に拠るならばブログが流行した時にはもう、日陰と日向は陰陽あい混ざっていた。


さらに気が付いたら陰陽混ざったほぼ皆がSNSをやっていた。SNSに至っては極論何も書く必要すらない。自分の思いを代弁する誰かの話をシェアすれば成り立つ。それの何が楽しいのかは未だによくわからないけど、140字すら書かずにネットに何かの足跡を残せるのは、さすがに書くことのハードルは下がったと言ってしまって良いのではないかと思う。


でも、みんな、いったい何に向かって書いてるのだろう。例えばこのnoteというプラットフォームなどを見ると、有用性が求められているようにも思える。


きっと、この有用性の世界が、見られることを意識する際のポイントになっているんだと思う。たぶんこんな感じのただ書き散らかす文章には、ほとんど需要はないはずだ。例えばエンジニアの記事、特定ジャンルへの有用な言及や紹介など、が読まれる傾向にあるだろう。ただし自分自身のことを言えば、こんな文章を書いているくらいだから、僕はそういった文章が苦手だ。


一方でSNSに載る文章に意味を感じることもあまりない。もはやSNSはどこかで絶対に民族や性別やトライブに対する攻撃に遭遇してしまう精神摩耗の不毛の地となっているから、純粋に楽しめない。実はこれらも有用性の範疇にあり、つまり閲覧される数や暴論暴言の攻撃力を追求し効率よく敵を打ち据える有用性の世界なんだと思う。


僕はあまり、有用性には興味がない。気取って書くなら、人々が無用なものを書く、その中にある、日陰の花のような、暗がりの裸電球のような輝きを好む。


なのでつまり、ここ10年以上、ネット上で読みたい文章がないのだ。

なければ自分で書くしかない、とまではとても言えないのだけど、この文章を偶発的に読んだ中の一人くらいの心に奇跡的に引っ掻き傷みたいなものが残れば良いな、と思ってこれを書いている。


いやそれもちょっと嘘かもしれない。思いつくままに書くのが楽しい。誰も見なくて良いとは言わないけど、みんな見てくれと言うほどのものではない。そういうのが結局好きなんだと思う。ここまで一息に書いた。ちょうど最寄駅に着くので終着点のないこの文章を終点に向かわせようと思う。




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